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2017.03.06 Monday | by スポンサードリンク

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次兄のこと

2017.03.05 Sunday | by kawa-su

私の次兄のことを少し書こうと思う。

次兄は、ある特殊な世界では有名であるし、その世界では神のようにふるまっている。だから信者は盲目的に次兄を賛美するし、そこから脱退した人は次兄を非難する。

創価学会や、最近話題の幸福の科学でも規模は違うが同じような現象を作っている。

ただし、宗教と言うレベルで考えた場合は、次兄の方が池田大作とか大川隆法より段違いに上である。

しかし、力で言うのなら、現状世界で見れば明らかに段違いに池田大作、大川隆法の方が次兄より上である。

次兄は、自ら神、創造神としてふるまっているが、これは十界の天の世界で言えば間違いではない。ただし、この世界(地球)の創造神と言うのではなく、次兄の世界の神とか創造神と言うことでもある。

この世界は天が最高峰の世界である。だからこの世に生まれてきた人は天の世界をみんなが目指す。しかし、力や能力の少ない者は、天を創りだせないので、誰かが創った天の下に入る。

例えばソフトバンクは孫正義が創った会社だが、ソフトバンクと言う天では孫正義が神で社員は天の下で生きる者たちと言える。

それと同じで、この世界にはたくさんの世界が創られ、その世界だけ神もいると言うことでもあるし、その世界では神は絶対者でもあるのだ。

だから次兄が創った世界では、次兄は神であるし絶対者でもあるのは間違いではないのだ。

ただ、この世界の創造神かと言うと、それはあり得ない。

そもそも、創造神はこの世界では楽しむことができないのだ。

創造神は、自分が創った世界なのだから、すべて自分の思うようにできてしまう。

8億円のロト7を当てることもできるし、スポーツのスーパースターにもなれるし、世界一の長者にだってなれる。しかし、それが楽しいことや幸せなのだろうか? 常識で考えれば、そんな世界はつまんないはずだ。

その理屈は、現在のゲームで考えればもっとよくわかると思う。ゲームの制作者は、そのゲームのすべてを把握しているのだから、そのゲームをいくらしても、まったく面白くない。そのゲームで楽しめる者は製作者側ではなくプレーヤーなのだ。

そして、このゲーム制作者が創造神と言うことだ。

つまり、この世界(地球)で楽しんだり、学んだりするのは製作者側ではなくお客側(プレーヤー)と言うことである。

だから、この世界の創造神は、この世界に降り立つなんて言うことはない。この世界の調整に来たと言うのなら、そんなレベルの低い創造神はいないだろう。この世界を創った創造神なら、ちょっとプログラムをいじれば、いくらでもこの世界を変えることができる。

しかし、仏教でいう仏の存在は違う。仏は、この世界の絶対者でもないし、この世界の最上位に立つ者でもない。この世界を楽しむために来た存在なのだ。ある意味、旅行者と同じであるしゲームで言うプレーヤーなのだ。

日本人がヨーロッパに旅行に行ったとき、その日本人はヨーロッパ旅行を楽しむために行く、それと同じようなものである。だから仏とはこの世界(地球)に存在する人とは違う存在だが、それは日本人がヨーロッパに旅行に行ったとき、ヨーロッパ人と日本人は違うと言うようなものである。

だから仏は佛(人にあらず)でもあるのだ。

人とは、この世界の住民のことである。

次兄のことを書こうと思ったが少し話がそれてしまった。しかし、次兄の立ち位置を書いておかなければこの後の説明も難しくなってしまう。

次兄は、運動家でもあった。

特に、空き缶運動はある程度有名だ。

私はこの運動に関しては、次兄は天才だと思っている。

今から40年以上も前に空き缶はリサイクルをしなければならないなんて、誰が提唱できるだろうか。そしてその時、次兄は24歳なのである。

リサイクルと言う言葉は色々なところで使われただろうから、リサイクルと言うことを提唱したと言うのは、実はそれほどのことではない。

次兄の天才的なところは、空き缶が捨てられている状況の解決策を示したことである。

空き缶が捨てられているから、みんなに捨てるのはやめましょうと言う運動家はいる。富士山の空き缶拾いをして訴える者は昔からいた。

しかし、そんな運動は本人たちの自己満足が90%以上占めているし、本気で問題解決をしようとは考えていない。

次兄は、解決策として、企業、行政、消費者、三者が協力しなくてはならないと、空き缶に関しては初めて提唱をした。

そのころ、空き缶が捨てられているのは消費者のモラルのせいだと言われていたし、捨ててある空き缶を何とかしないのは行政が悪いと思っていた。誰もが企業責任なんて考えてもいなかった。

企業は売ったら、売りっぱなしで、後のことを考えないでいいのか。

今では、こんな当たり前の理屈が40年以上前では理屈にもならなかったのだ。

また、空き缶を公害だと訴えたのも次兄が初めてであった。

それまでは、水俣病の様な排水汚染、大気汚染が公害だと思われていたのだ。

次兄がマスコミに「空き缶公害と言ったのが通ったよ。さすがに言いすぎだと思ったけど通用した」と言ったのを今でもよく覚えている。

これ以後、何でも公害と言われるようになった。

次兄は、常に本質を見抜こうとしていた。

普通の人は本質より形を重要視するが次兄は違った。

だから、次兄が運動家として一生を送ったら、これは凄い運動家になったはずである。賛同者がほとんどいなくても凄い運動家ではあったはずだ。

実際、本質的な運動には大衆はついてこない、形がしっかりしたものにしかついてこないのだ。その形も本質はどうでもよく、体裁とか力についていく。

実際、次兄の空き缶運動に参加したのは私と弟、そして宗教がらみで一人、世に名を売りたいからと言う者が一人しかいなかった。後は次兄が本を出し、その本に感銘を受けた読者が後に運動をしただけである。

つまり、本により、次兄もある程度力がついたので、その力によって参加したのであって、運動に賛同して参加したわけではないのである。

だから、ある意味、次兄が運動家だけになったとしたら、賛同者はほとんどいなくて、運動も認めてもらえなかったかもしれない。でも、そんな結果になったとしても、運動家としてはとてもレベルが高くなったはずなのである。

次兄が最近何をしているのかはよく知らない。

私がいた頃に浮世絵、ゴッホなどを研究し、広めようとはしていた。私もその影響をものすごく受け、今でもゴッホと印象派の研究はしている。

そして、今日、偶然に次兄が研究発表した、ゴッホや印象派、浮世絵の論文を読んだ。

もし、次兄が赤の他人だったら、私はこの論文を書いた作者に会いたいと思っただろう。

次兄の論文は明らかに学者の論文とは違うし、一般の研究者とも違う。

どちらかと言うと私の研究論文に似ている。それは、形より、本質を見ようとしているからかもしれない。

次兄の論文は思い込みや決めつけが多い。

だから、そんな書き方を嫌がる人も多いと思う。そして、次兄の信者は書いているのが難しいために理解ができないかもしれない。だから、次兄の信者でない限り誰も読まない類のものでもある。

私が読んだ論文はクレポンのこととゴッホの時代のフランが現代ではどのくらいの価値だったかと言うことと、印象派の名前の語源のことである。

ゴッホの時代のフランの現在価値と言うのは、ゴッホ時代を研究すれば絶対に知りたいことでもある。それなのに、それに触れるゴッホや印象派研究者はいないのである。

ゴッホや印象派のことを勉強したいと考えたらそこは一番重要なことなのに誰もそれに触れない。

私は当然研究した。結論的には次兄と私とでは少し違いが出ていた。

次兄は、いろいろな例を挙げ1フラン500円くらいと結論づけていたが、私はそれよりもう少し高くしている。

この問題は何を基準とするかによって結論は違ってくる。だから正確な答えなんてない。

一般労働者の基準で考えたり、外食で考えたり、宿泊賃金で考えたりで結論は違ってくる。

現在だって円とドルとユーロの適切な価値の違いなんてはっきりしていない。

よく言われるのが、マクドナルドのハンバーグの値段である。それで比べるのが一番わかりやすいと言われるが、それだって絶対ではない。

次兄はいろいろ調べ、対比させて1フラン500円と結論付けた。

ただ、浮世絵を考えたときに500円は安い。

なぜフランの価値が重要であるのか?

それは、ゴッホ、印象派の画家のほとんどが生活に苦しむ中、絵を描いていたからだ。

定説として印象派1880年代には世に認められたことになっていて、多くの研究者がそれに異議を挟まない。

確かに、画商のポール・デュラン=リュエルが印象派に目をつけ、印象派の絵を買いあさっていた時はモネを始め、印象派の画家は多少潤った。

しかし、印象派の絵はまだまだ世間に認められず、ポール・デュラン=リュエルの資金も無くなってきて、何とかしようとアメリカに渡り、そこで成功してから印象派の絵も認められるようになったのである。

だから、印象派の絵が世間に認められ始めたのは1880年代ではなく1890年代なのだ。

次兄も書いているがモネの絵が1880年代いくらだったのか知れば、モネの認知度も分かるのだ。

もしモネの絵が今の価値で言えば数千万円で取引されたのであれば、これは間違いなく認められていたと言える。

しかし、モネの絵は数百たまに数千フランが相場であった。

この数百〜千フランが現在の円でどのくらいだったのかわからなければ、認められていたのかまだだったのか見当もつかないのである。

当時のヨーロッパで、認められる金額は数千万で、悪くても数百万でなければ認められたとは言えない。

数千万円の価値を持つ絵を描ける画家はアカデミーの大家の画家で、数百万円くらいのアカデミー画家はそれなりにいた。

ゴッホの師匠でハーグ派の重鎮モーグは数百万円の絵が描ける画家であったから認められていたと言えるが、今ではゴッホの師匠でなければ誰も知らない画家であるし、それくらいの知名度でも知名度のある絵を描いていたのだ。

印象派ではモネの絵が価格では他の印象派画家のワンランク上であったので他の印象派の画家はどう考えても1880年代は認められていたとは言えないだろう。

しかし、数百〜千フランでも定期的に売れるのであれば認められていると言えるのだが、それが売れないからモネはゴッホの弟テオを頼ったのである。

この辺の事情も、フランの価値が分からなければピンとこない話なのである。だから、印象派やゴッホ研究家は初めにそれを調べるはずなのだが、そういうのを日本の研究書籍では見たことがない。

それにゴッホはテオから支援を受けていたが、それもフランの価値が分からなければおこずかい程度だったのか、暮らせるだけのお金だったのか分からない。

ただ、食事代とか宿泊代でフランの価値を決めるのは難しい。

今でもそうだが、ヨーロッパでは外食はもの凄く高い。だから貧乏人は外食なんてほとんどしない。スーパーで食材を買うと安いから貧乏人は自炊だ。

でもゴッホは自炊なんてしなかった。

売春婦のシーンと暮らした時は、おそらく自炊をしたのだろう。だからテオの仕送りでもシーンの家族を養えたのだと思う。

だから、ゴッホが貧乏人だと言う解釈は少し違う。一般人からすれば貧乏人ではなかったが、自炊で時間を取られるより絵を描きたいために外食をした。でも、アルルでは売春婦も買っていた。

だから、ゴッホは弟のテオにかなり甘えていたことになる。

現在の常識で考えれば、こんな兄を誰が支援できようか。

支援しても、最低限自炊して売春婦は買うなと言いたくなるはずだ。

だから、ゴッホを語る時に弟のテオの偉大さも語らなければ片手落ちになってしまう。しかし、それもフランの価値がはっきりしなければあやふやな問題になってしまうのだ。

クレポンに関しては次兄の論文では決めつけもあったが、これは問題ない。なぜなら独断、決めつけから研究は始まるのだ。

そして研究が進むにつれ、独断や決めつけが間違ったと知ったら、その時、訂正すればいいのである。

これを勘違いしている人が多い。

決めつけや独断は間違っていると。

確かに間違っている場合が多いが、世の中の定説だって正解とは限らないのである。

最近、聖徳太子は存在しなかったなんて言われているが、事実は藪の中で、多くの賛同者が得られると、いつの間にかそれが定説になるだけである。

釈迦にしたって、アソカ王が釈迦と書いてある石碑を見つけたから現実に存在していた人物とされているが、その石碑が間違っていたかもしれないので、実際は存在していたかなんて誰も分からないのである。誰もは語弊があるかもだが大きくは間違っていない。

つまり、正しいなんて言う言葉は、その時の勝利者が言う言葉であって、事実かどうかなんてはっきりしないのである。勝てば官軍はどこでも通用する。

だから、全てを疑ってかかる場合は独断と決めつけは初めの一歩となる。

次兄が研究したクレポンは間違っている可能性が高いのもあるが、価値があるかもしれないのである。

印象派の語源も書いていたが、これは結構参考になった。

モネの印象・日の出は確かに浮世絵ポイからインスプレッションと日の出の前に付けたのかもしれない。ただし、後の名称の印象派展でモネの日の出を見て「確かにこれはインスプレッションだ」と言われたのは、浮世絵的と言うよりラフ画だと言うニュアンスだったと思う。

モネ達ゲルボア派はインスプレッションのことに関してかなり関心を持っていた。

それは、浮世絵と言うのもあるが、ささっと描くスケッチと言う意味もあったのだ。

この時代、戸外で描くと言う画家が現れたが、多くは戸外で簡単なスケッチを描き、そのスケッチをもとに室内で絵を描いたのだ。当然、戸外で描くスケッチは短い時間で印象に残る景色をささっと描いた。

この時代、絵は何か月とか何年もかけて描くものだった。

それがモネの日の出は数時間、下手をすれば1時間以内で描いたように見えたのだから、これはインスプレッションだと言われたのだろう。

アカデミー絵画全盛の時代、そんな絵を見たら、良識のある者は怒るのが当たり前である。絵画を冒とくされたように感じるからだ。

日本の絵は印象派だけではなくアカデミーの画家も認めている者が多かったから、浮世絵的だと言うのは憚れただろうし、だいたい、浮世絵自体が、一般的にはそんなに浸透していなかった。浮世絵も熱狂的な時代に入るのは1890年代からである。

しかし、モネはインスプレッションを浮世絵として題名をつけた可能性が高いので次兄の説は正しい可能性が高い。そして、その方が印象派の説明もしやすくはなる。

印象派と言う名前は、ドガは嫌っていたし、モネもルノワールも、後には自分の絵に印象派と言う名前を付けられるのを嫌がっていた。唯一、ゴッホは自ら印象派を名乗っていたので浮世絵に傾倒していたと言うのが分かる。しかし、モネにしても、自分の絵は浮世絵を乗り越えたと考えたから印象派の名前を嫌がっていただけで、浮世絵を200枚以上収集して、ジヴェルニーの自宅の壁に飾って楽しんでいたのだから、浮世絵自体は否定していなかったし宝物としていた(ただ、ゴッホの収集していたのと違い、モネが収集していた浮世絵は、写楽、歌麿、北斎など現在高額な浮世絵が多かったのだが、壁に飾っていたために色が落ちてしまい価値がかなり下がってしまった)。

モネとゴッホの浮世絵収集の中身が違うのは一つのミステリーなのだが、推理すればある程度は分かる。ヒントは浮世絵が爆発的人気になったのは1890年代からだが、値上がり始めたのはゴッホのアルル時代から始まった。

私が次兄のことを別れてから初めて書くのは、次兄の世界を離れたので、次兄の世界での考え方を私はできないが、それでも、この世界の何かを次兄は知っていると思うからだ。

次兄のところを脱退して次兄を非難するのは簡単である。

また、非難することにより、次兄より自分の方が上だと言いたいのも分かる。

次兄のやることは現代世界の常識からすればおかしなことばかりだから、それを指摘して次兄がおかしいと言うのはあまりにも短絡すぎる。

 

例えば、織田信長を勉強すればいい。

織田信長の時代、その時の時代常識をいくつも信長は破った。しかし、勝って行けば、それが正しいと人は言うのである。勝てば官軍だ。秀吉なんてどれだけ残酷で卑怯なことをしたのか。それでも秀吉の賛同者は多い。政治は勝った方が正義なのである。そして、古代インドの思想では負けた方は修羅にされるのだ。阿修羅王はアーリヤ人が征服した土地の太陽神だったのが負けたために阿修羅にされたのである。

つまり、この世界は良い人間は政治の世界では敗者になる可能性が高く、ずるい人間ほど勝者になる可能性が高いのである。そして勝った方が正義なのだ。

この世界で創られた政治の天の世界は本当の事実なんてどうでもいいのである。

勝って、自分の都合のいい話を事実とし、正義とするのである。

だから、正しいとか間違っているなんて言う論理は政治の世界では無意味でもあるのだ。

次兄は、宗教の世界の形を取っているが政治の世界だ。ある意味、創価学会や、幸福の科学と同じである。と言うより、世界の宗教のほとんどが政治の世界なのだ。

政治の世界は敵を作り、それを悪と言う、そして、自らを正義と言い、戦いを奨励する。

それがどの世界でも同じであったが、不思議と古代インド思想と仏教の始まりは哲学なのである。ただし、時代とともに哲学から政治に代わってしまったが。一応、妙法蓮華経も仏教では珍しい政治宗教である。日蓮は100%政治宗教だ。

だから、その流れをくむ宗教は必然的に政治宗教となってしまうし、その宗教に反対する勢力も政治宗教となる。

最後に洗脳されていると言うのがある。次兄に対して洗脳されたと非難する者も多いだろう。しかし、この世界のほとんどが洗脳の世界なのだ。また、洗脳されているから、自らが安定しているともいえる。もし、洗脳がすべて解けたら自分がふわふわした状態になり、とても不安定さを感じもやもやした気分になるはずである。

だから、ほとんどの人が洗脳されたがっている。ただ、その洗脳された世界が、レベルが高ければ、割かし幸福になれる。レベルが低いと不幸になるのだ。だから洗脳されるのならなるべくレベルが高い方が幸せだ。日本と北朝鮮を比べればよくわかると思う。

そのすべての洗脳が外れた者たちを佛と言い、佛がそれぞれの世界を楽しむ行動が菩薩道で、この世界を相手にしないのが縁覚、佛に付いていき佛と一緒に世界を楽しむのが声聞である。

この辺はかなり説明しないと分からないところだがとりあえず簡単に。

結論的には、この世界は天が最高峰で、佛と言えども、天の境地(世界とは違う)は望んでいる。なぜなら、この世界を楽しむために来たのだから、当然、その最高峰の天の境地は味わいたいのだ。ただ、創造神、いわゆるこの世界の制作者が、そんな単純に佛(プレーヤー)に天の境地を味合わせない。やはり人生を面白くしてやろうと言う製作者の意図があるのだ。

それでも、あまりにも製作者(創造神)の求めているゲームの面白さが大変だと、佛も、もう縁覚でいいやなんて言うことも思ってしまう。その辺の駆け引きがこの世界の面白さでもあるのだ。ただ、これも唯物与仏でなければ分からないことなである。

次兄はかなりこの辺のことも、この世界の仕組みも分かっている感じだ。次兄は創造神ではないが、その近くにいたと言う可能性はある。誰も言わないこの世界の秘密をかなり知っているから(それは、一般受けするカルト的な話ではない。次兄の信者には話さないようなことを私にはいろいろ話したことがある)。

だから、次兄の世界に入ることはもうないが、次兄が最後、何を目指すのかは関心がある。

私は天の境地には関心があるが、天の世界を創るのは関心がない。だから、集団とかは作らないし、そんな元気もない。一人もしくは数人くらいなら一緒に何かをしてもいいが、大人数はエネルギーが持たない。天を創る神に比べれば、力は比べ物にならないほどないのだから。


天の世界

2017.02.23 Thursday | by kawa-su

天とはこの世界に生まれてきたすべての人が憧れ求めている境地である。

幸せの境地は天である。

宝くじが当たる、良い学校、又は良い会社に入ることができた、給料が上がる、旅行に行く、恋人ができる、結婚ができるなど、幸せだと思われる境地はすべて天の境地なのである。

そして、その天の境地をなるべく維持するために天界を創るものが出てくる。

天界とは一つあるだけではなく無数にあるもので、ただ、大きさが違うだけである。

例えば地球と言う大きな天界の世界があり、その中に日本とかアメリカと言う世界が入っている。又は、トヨタとかソフトバンクの様な会社の天界もあるし、芸能界の様な天界もある。数人しかいない会社でも小さな天界と言える。

つまり、トップが存在する世界は天界だと言えるのだ。

そして、その天界に敵対する存在を修羅と呼ぶ。

修羅とは天に負けた存在なのだが、負けていなくても天界からすると敵対する存在は修羅なのだ。

例えば日本最大の宗教団体、創価学会は天界であるが、創価学会に敵対する宗教団体からすれば創価学会は修羅となるのである。

だから、創価学会に敵対する団体は創価学会を悪魔の様な呼称をつけるのである。

しかし、それは、その敵対団体の中で修羅になっているだけで、それ以外の世界では圧倒的な力を持つ天と言う存在になっている。

時が過ぎ、創価学会が衰退し、他の宗教がこの日本を牛耳ったら日本と言う世界でも創価学会は魔とか修羅の存在になる。

これは、同じ仏教教団の釈迦教団と提婆達多教団の関係でも言える。

釈迦や提婆達多が生きている時代では、両者は同じ仏教教団のライバルであったが、その後、釈迦教団が信者数を増やし今の時代までその勢力が残り、提婆達多教団は消滅すると完全に提婆達多は悪人(魔とか修羅)にされてしまうのだ。

日蓮教団でも同じことが言えて、現代では日蓮関係の教団では禅宗や浄土真宗などは魔とか地獄に落ちる宗教にされている。

つまり、天の世界では天の教義が正義であり、敵対する者は悪なのである。

だから、正しいと自らの宗教をほめたたえる教団はすべて天の世界なのだ。

法華経は正しい教えの白蓮と翻訳されていて、初めは正法華経と題名を訳されていたのだが、鳩摩羅什が妙法蓮華経と正の字を妙に変えた。

何しろ、法華経は正しい宗教、唯一の宗教と広める者は言っているので、完全に仏教ではなく神教(天の教)だと言える。

だいたい、南無阿弥陀仏と南無妙法蓮華経と、唱える行為に何の違いがあるのだろうか?

論理的には、行為は同じである。どちらも唱えれば幸せになれると言っているのだからレベル的にも同じである。

親鸞の教えは哲学的ものであったが、それを蓮如が神教としたために念仏も完全に神教になってしまった。ただ、神教にならなければ多数の信者を獲得するのは難しいので、教団宗教を目指すのなら仕方がない行為でもある。


佛は天に菩薩は神になってしまった

2017.02.16 Thursday | by kawa-su

この世界のすべてと言っていいほど宗教(経済や政治も同じ)は天をトップとしている。

ただ、仏教だけが天とは別の存在、四聖を創った。

四聖の一つ、声聞は真理を追究する者、佛の下で修行するものとされている。

釈迦の時代では釈迦に付いて、諸国を、乞食業をしていたものを言う。

そして、釈迦に随行する弟子は数人であるから真の声聞の存在は数人であっただろう。後の十大弟子と言う存在は後に創られた存在だ。

つまり、声聞と言う地位に就ける者はほんのわずかしかいないのである。

四聖のもう一つ、縁覚は独覚、もしくは辟支仏とも呼ばれ、仙人のような存在であった。ただ、釈迦の時代には釈迦以外にも悟りを開いた者はそれなりにいて、釈迦教団では釈迦と区別するために縁覚と言う存在を創ったのである。

声聞、縁覚は、大乗仏教では小乗二乗と呼ばれ一乗の菩薩とは同じ四聖でも区別されている。

そしてその大乗仏教の菩薩だが、ほとんどの菩薩の存在は神となっている。

仏教を広めるものを助ける存在なぞはまさしく神の存在ともいえる。

つまり、佛が天となり菩薩が神となってしまっているのだ。

そうなると、大乗仏教では、仏教だけが独自に創った四聖と言う存在は全く意味がなくなってしまっている。

そして、佛が天に変化してしまった時代は大乗仏教が盛んになってからで、法華経はまさしく仏教と言うより、他の世界中の宗教と同じく天と神様をトップとする宗教となっているのだ。

これは、大乗仏教が盛んになった時代は西洋の文化、宗教も流れてきて融合された結果だと言えるし、その時代には、釈迦の時代の哲学的な仏教はすたれてしまったからと言える。

天台大師や日蓮は十界を重要視しているが、実は四聖の意味まで理解していなかった。ただ、天台大師は理解していなかっただけだが、日蓮に至っては、完全に別物としてしまっている。

もともと、日蓮は声聞や縁覚は重要視してはいなくて、菩薩と仏を重要視していたのだが、その菩薩と佛を理解できず、菩薩を神とし、佛を天としまった。そしてその結果が、日蓮が現した曼荼羅(本尊)であるのだ。

現代でもこの四聖を理解する者はいず、特に菩薩と佛を理解する者は皆無なのだ。

現代で佛を自認する者のほとんどは、天の存在であり、その天も古代インドで言う梵天と言う真理の存在ではなく神なのに天と称しているだけなのである。

そうなると佛に付く声聞は神に付く畜生と言う存在になっている。

つまり、自らが声聞だと思っている者のほとんどは、実は畜生と言う存在になっていると言うことである。

これは仏教教団、仏教集団の信者はすべて神に付く畜生だと言えると言うことだ。

本当の菩薩や仏と言う存在は、自由を選ぶために集団や教団をつくることはなく、付いてくるものがいたとしても数人が限度なのである。

だから、集団や教団をつくること自体が天を目指している存在だと言えるのだ。

ただ、この世界は天が創っているものだから、天を目指すことは悪いことではないし、この世界に生まれてきた以上天を目指すのは必然ともいえる。

ただ、どのような天を創るかでその天の価値は大いに違うし、レベルの高い天に付くことができたならば畜生でも割かし楽しい人生を送れるのだ。


天とは

2017.02.04 Saturday | by kawa-su

十界は鳩摩羅什の法華経には入っていないが、天台大師の一念三千論では重要である。

十界は声聞、縁覚、菩薩、佛の四聖と地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天の六道に分かれている。

世界の宗教は天を最上位としている。仏教はその天とは別に四聖と言う世界を創った。しかし、今の仏教はそのほとんどが団体宗教なので天を佛として、天を目指す宗教となっている。

この世界は欲でできている。

欲を否定するとこの世界では生存できない。

生きた物を食べると言う行為無くしてこの世界では生きていけないし、食べたいと言う欲求自体が欲そのものである。

この世界には三大欲があり、その三大欲を満たさなければ生きていけないようになっている。その三大欲とは食欲、性欲、睡眠欲である。それ故、この三大欲を断つことが四聖の道だとし、古代インドではこの三大欲を断つ苦行が修行者には課せられていた。

釈迦もこの苦行をしたが、その苦行では悟れないとし、菩提樹の下で大悟を得たとされている。

しかし、そうはいってもこの三大欲を断てば神秘的体験ができることは確かで、仏教修行者はこぞってこの三大欲を断つ修行をしていた。

それが、教団宗教になるとこの苦行は意味をなさなくなり、布施と信心が重要になった。布施と信心が崇める存在は天であるため、教団宗教の信者も教祖も目指すところは天となる。

この世界の最上位は天であるため、その天を否定することはこの世界の否定にもなるために、この世界を肯定するのなら天は否定できないし、天がこの世界で生きる人の目指す存在でもあるのは仕方がないことである。


創価学会の利善美

2017.01.16 Monday | by kawa-su

天台大師の教義は一念三千、日蓮は三大秘法、では、創価学会はと言うと、これは利善美である。

創価学会の初代会長牧口恒常三郎(この時の名称は創価教育学会)は現世の価値を、従来のプラトンやドイツ哲学カントの真善美から利善美と唱え、それが創価教育学会創設の教義となった。

創価とは利善美のことであり、従来の真善美の真を利に置き換えた理論である。つまり、真ではなく利が重要だと言うことでもある。

これが分かれば創価学会の行動がよくわかるともいえる。

牧口は小学校の校長で右翼思想の持主であった。

右翼の信奉する宗教者と言えば日蓮があげられる。

日蓮は外敵(蒙古)から日本を守ったと日蓮信者には思われていて、その外敵から守ると言うことが右翼から指示されているようだ。

それ故、牧口が日蓮に注目したのは必然でもある。

牧口は書籍の中で「科学と反する宗教、対立する宗教は真実の宗教ではない」
「処女が子供を生んだり 死んでからうろうろ歩いているキリスト教のごときは 根本が誤りである。さればその宗教を正しいとするためには 科学と対立することとなる」
「死んでから十万億土の西方浄土へ生まれるという事は釈迦の一時的仮説であっても 証明も 説明もなし得ない事であるから 科学とは妥協できないのは云うまでもない」
「真実の宗教は 科学的な実験証明がなされねばならぬ」
「日本で役立っているが印度では駄目だとか 百年前にはよかったが 百年後には役に立たなくなると云うものではならない」
「釈尊の研究の最高峰は法華経である」
「法華経に説かれた教えをごく簡単に云うなら、仏の境涯をさとり得たる人格の出現は一切を仏にせしめんとするにある」
「日蓮大聖人は一切衆生を幸福に導いて行く本尊を出現せしめた」
「この御本尊を信じて 南無妙法蓮華経と唱えるにあって、この実践行動によって 人類は幸福になりうる」

と書いている。

科学と宗教……まるで幸福の科学のようでもある。

しかし、科学とは論理的なものである。処女懐胎や復活が科学的でないと主張するのは、確かにその通りだが、宗教とはそういうものだろう。科学的な宗教なんて見たことがない。

だいたい、牧口が言う釈尊の研究の最高峰は法華経であると言う主張もどこが科学的なのだろう。独善的な決めつけ論理に過ぎない。小学生には通用するかもしれないが中学生には無理だろう。

だいたい、釈迦が生きていた時代に法華経は生まれていなかったから、完全に科学的ではない。

日蓮大聖人が本尊を出現させ南無妙法蓮華経と唱える実践行動が人類の幸福につながるなんて宗教で通用しても科学で通用するわけがない。どこにも論理がないのだから。

牧口は、百年前は良かったが百年後には役に立たなくなるものではないと断言するのは、宗教では確かにそうだろう。

しかし、科学は発展するものだから百年前のものが駄目になるのは当たり前である。

それでも、宗教の教えは年数によって駄目になるものではないと言うのは分かる。しかし、日蓮の教えは末法と言う釈迦の教えが通用しなくなったから新しい教えが必要になったと言うところから出発している。

つまり、牧口の言うことは宗教としてはもっともなのだが日蓮の教えとは反対の立場になると言うことでもある。

これだけおかしな論理でも、ついてくる人がいると言うことは、科学的でもなく、単について来る者たちのレベルが低かったと言える。

しかし、宗教とはそういうもので、レベルが低ければ低いほど、多くの信者を集めるのである。

それに、牧口の言う利とは、確かに庶民には魅力だ。

ご本尊に向かい南無妙法蓮華校と唱えれば幸せになれるのならこれほどの利はないだろう。

牧口は何が利するかを考え、日蓮正宗を利用することを考えたのだと思う。

日蓮正宗を利用して組織を作り、その組織で何かをしようと考えたのだろう。

その何かは右翼だから右翼団体を作ろうとしていたのかもしれない。

しかし、それは獄死と言う結末で終わったため、弟子の戸田が引き継いだ。

戸田は経済人だから利と言うものを一番理解していた。

組織を大きくして会員を増やせば、会員で商売ができる。

そして実際、会員を増やしていった。

これは日蓮正宗でもなく日蓮の教えでもなく法華経でもないし、仏教でもなくなった。

仏教は古代インド思想の延長にあり、どちらも真を目指していたのだがから。

それ故、創価学会は新しい宗教と言えるだろう。利善美教と言ってもいいかもしれない。

2代会長の戸田は、創価学会は日蓮正宗の外護団体にすぎないから、日蓮正宗を守るためなら創価学会がつぶれても構わないと言った。

それでいくと、池田がひきいる創価学会が日蓮正宗と喧嘩するなんて考えられないのである。

しかし、利で考えてみてはどうだろう。もう日蓮正宗を利用する必要がなくなり、日蓮正宗の外護団体では利がなくなったなら、一緒になる必要はないのである。

野党として政治をするより、与党にすり寄った方が、利があるのなら、当然そのようにする。

東京都が小池旋風により東京都の自民党に与するより小池新党にすり寄ったほうが、利があると思えば当然、すり寄るのである。

このように、利善美が根本にあるのだなと考えれば創価学会の動きは理解ができる。そして当然その信者も利が重要なのである。

ある意味、こういう団体は強いが、利がなくなれば団体は崩れても行くだろう。

こういう利で動くのは戦国時代の武士の政治のようでもある。

だから創価学会も宗教団体と言うより政治団体だともいえる。


正義とは勝者

2017.01.08 Sunday | by kawa-su

天台大師が説いた一念三千とは論である。

日蓮はこれを信じて自分の論を展開した。

日蓮の論は三大秘法である。

日蓮の信者はこの三大秘法を信じたのだが、現在の日蓮系ではこの三大秘法の実践をしようと言う信者は少なくなった。

天台大師の説いた一念三千とはおかしな説明もあるが、力はある。だから、おかしなところがあっても、力がそれを上回り、この世界に影響を与えている。

日蓮の三大秘法は全くおかしな論なのだが一念三千よりも力がある。日蓮の念の力が天台より大きいのだ。

正しいから力が強いわけではない。

政治とか経済を考えれば、正しいから力が強いわけではないと言うのはレベルが少しでも高ければわかることである。

政治でも経済でも力が強くて勝つから正しいとされるのだ。

そして、宗教もそのようになってしまっている。勝つから正しいと。

本来の宗教は力ではないのだが、勝たなければ後世に信仰が残らないし教団も大きくならない。教団が大きくなるから信じる者も多くなる。

仏教も勝ち残っていたから大きな教団になったし現代にも引き継がれている。だからと言って、その教えが正しいかどうかは別である。

例えば釈迦教団と提婆達多教団の教えは提婆達多教団の方が、レベルが高かった。しかし、レベルが高いと言うことは、レベルの高い人しかその教えが分からない。だから、当然、信者数を多くは持てない。それに比べ釈迦教団は教えを社会に合わせどんどんレベルを下げたから信者は増える。その結果、釈迦教団が勝ち、提婆達多はこの世の中で一番の悪人にされてしまう。

もちろん、釈迦も提婆達多も亡くなった後のことだが。

これは、戦国時代も明治維新も同じである。勝者が歴史を作るのであって、敗者は悪人にされる。

戦国時代は分かりづらいが、明治維新なら理解できるだろう。

明治維新の立役者と言われる坂本龍馬、高杉晋作、伊藤博文、西郷隆盛等、みんな偉人とされている。なぜなら勝者側だからだ。

敗者の徳川関係者は、ほとんどが時代を理解しない、日本を滅亡に向かわせている者と教えられ、それは今でも続いている。

それは勝者の歴史を現代でも教え込まれているからだ。これも洗脳である。

そして仏教の十界では勝者を天と言い敗者を修羅と言う。

阿修羅王とは、もともと、古代インドの先住民が信仰していた慈悲深い太陽神のことである。


三蔵

2017.01.07 Saturday | by kawa-su

宗教とは何だろう?

古代の宗教なら単純だ。

神がかりの巫女(神子)が神の言葉を述べることが宗教だった。それに政治が加わり、宗教は政治に利用される。

仏教のもととなった古代インドのリグ・ヴェーダの初めは、インドラ(帝釈天)と言う戦い(政治)の神をたたえる詩がほとんどだった。

政治宗教の次に来る宗教が、信じることが重要な宗教だ。

そして、この信じる(信仰心)の宗教が世界の宗教のほとんどを占めている。

キリスト教やイスラム教、ユダヤ教など欧米の宗教は神を信じると言うことが信者の一番の勤めだ。

だいたい、信者と言う呼び名が信じる者と言うことだから欧米の宗教は信仰心とほぼイコールとなっている。

しかし、信じる対象が間違っていたらその宗教を信じると言うことは最悪になる可能性もある。

通常「信じなさい」と言うのは詐欺師だと決まっている。

それ故、信じなさいと言う宗教も詐欺師と変わらないと考えるのが普通なのだが、ほとんどの人はそうは思わないし、教育が高いと思われる人たちも宗教となると幼児と同じくらいのレベルとなってしまう。

ただ、宗教の場合、騙されてもお金を取られるだけでポジティブになれると言う場合もある。

宗教のほとんどは、表向き、社会に対して善い行いをしなさいと言っているので、社会福祉や恵まれない国や人を助けるなんて言うことを宗教はよくやるし、それを手伝う信者も、社会に貢献しているのだと行動していれば、生き方がポジティブになる。それ故、宗教としては騙されても本人にとっては良いと言う場合もある。

だから一概に信仰宗教は悪だとは決めつけられない。

信仰心ではない宗教と言うと何だろう?

それは戒律と論(他の人の論を信仰すればそれは信じる宗教だが)だ。

仏教ではこの二つに経(教は自分で何が書かれているのか考えれば論となるが、ただ信じるだけなら信仰となる)を加えたのを三蔵と呼ぶ。

有名な三蔵法師がインドより持ち帰ったのがこの三蔵である。

釈迦の教えが経で、それに色々な人が解説をしたのが論、そして弟子(修行者)が守らなければならないのが律だ。

律(戒律)の意味は簡単だ。

人を殺してはいけないとか盗みはいけないみたいなことで、仏教なら肉を食べてはいけないとかセックスをしてはいけないみたいなこともあるだろう。

何しろしてはいけないことが律だ。

この律をちゃんと守るような僧がいないのは誰もが知っているところだ。

経と論は教えのことだが、ほとんどの信者はそれらの中身を知らない。だいたい僧でもお経は読めても中身は知らないと言う者もいるだろう。

ましてや、信者となるとほとんどの者はよくわからないはずだ。

つまり、仏教でいう三蔵は信者にはほとんど関係ないし、僧侶にとっても意味がない感じになっている。

その三蔵よりも信じることが重要だと教えられる。

そしてこれは仏教だけでなく信仰を重要視する宗教はみな同じようなものだ。


里づくり

2017.01.05 Thursday | by kawa-su

里づくりを仏教で考えるとどうなるか?

仏教の十界で言うと、都会暮らしは地獄から天までの六界(六道)を言い、里づくりは

四聖の中の声聞と縁覚を言う。ここで重要なのは里づくりでなく田舎暮らしだと都会暮らしと同じく六界になる。

もちろん例外はある。

都会暮らしでも田舎暮らしでも四聖の暮らしをしている人もいれば、里づくりをしている人でも、意味が分からなければ地獄の中に入ってしまうのだ。

そしてこれが重要なのだが、里づくりでも、本質が分からない指導者が指揮を執っている場合は、指導者が天の境地にとどまってしまうために、そこに集まる人々は地獄、餓鬼、畜生の境地の中に入ってしまう。

指導者がいず、自分だけで里づくりをしても、里づくりの本質を理解しないと地獄、餓鬼、良くて人の境地に留まってしまうだろう。

ただし、智慧の出る人ならば苦労はしても縁覚の境地にたどり着けるかもしれない。

智慧が出ると言うのは、自ら何かをしようとすれば出るものだ。しかし、この世界の教育(洗脳)が強い人は、常に誰かの教えを請おうとして自分の考えを出そうとしない。それ故、智慧も出ない。誰かのマネをしたり、技術を盗もうとするのは構わない。初めてなにかをするときは、どんな天才でもそのようにするからだ。しかし、そこでとどまると智慧は出ない。

例えば、里づくりの一環として農業をする。その時、ほとんどの人は有機肥料、無農薬野菜を作ろうとするだろう。そして、それが特別なものだと自慢したいはずだ。

しかし、今は昔と違い、田舎で自分が食べる野菜を作っている人は、ほとんどが無農薬で作っている。だから、特別ではなくなってきている。

そして、無農薬の野菜だからすべて良いと考えるのは、これも洗脳されているからである。

自分で考えようとしないで、都会から田舎に来て野菜を作る人はみんな無農薬を目指すから、それが正しい行為だと誰かの考えに賛同しているだけなのである。

無農薬野菜を作るのを目指すのは良い。しかし、それがどういう意味を持つのか自分の考えが出ない人は、時間とともに、地獄、餓鬼の世界に陥ってしまうだろう。

つまり、里づくりと言うのは単に田舎に行けばいいと言う話ではないのだ。

 


里づくり

2017.01.04 Wednesday | by kawa-su

里づくりとは何でしょうか?

これは宗教と関係あるのでしょうか?

普通、里づくりと言えば宗教ではなく生き方だ。

単純に言えば都会に住むか田舎に住むかということなので、これだと生き方であるし、経済的なことかもしれない。成功者は都会に住み脱落者は田舎に帰ると言うのはよくある話である。

私が住んでいた沖縄の島ではまさしくその通りで、島から出ていき成功したものは、そのまま帰ってこず都会で暮らし、都会で失敗したものは島に帰ってきた。

だから、島は高齢者と失敗者が大半を占めていた。

もちろん、田舎の自然にあこがれ引っ越して来たものと、生まれ故郷が好きだと言うものもいる。そして、島のリーダーになるものは移住者かUターン者が多い。これはエネルギー(力)が違うからで、新しいところに住もうと言う人は、失敗者とか先住者よりもやる気があると言うことでもある。

田舎の人の構成はほとんどこのパターンだが、酷いのは、高齢者を捨てに来る家族もいた。

もちろんその家族には捨てると言う意識は持っていないだろう。

おじい、おばあが生まれたところで住みたいと言ったから、小さな家(小屋)を造ってあげたと言うだろう、たとえ小さな小屋と言えど、数百万円はかかったと主張すると思う。

それでも、他人には捨てているように見える。

今、田舎に住むと言うことは悲しい現実を見ることであり、都会に住んでいる人からさげすまされることでもあるのだ。

では、視点を変えたらどうだろうか。

里づくりとは、人工的なものに囲まれて生きるのか自然に囲まれて生きるのかと言う定義にしたらすこし違ってくる。

そして、この定義には人工的と自然の説明をしなくてはならない。

一般的な印象では、人工的と言うと悪で、自然は善と言う印象がある。

しかし、そうなのだろうか?


コメント

2017.01.02 Monday | by kawa-su

ここはブログだから、当然コメントも来るのだが、ここ何年かコメントを見ようとしなかった。

だいたい、コメントが来ることもないし、来ても宣伝とかH系だと思われるコメントだから、無視するしかなかった。

でも、私がゴッホの本を出した時にコメントをもらっていた。今気が付きました。

これはお礼を言うのが遅いけどありがとうございます。

ゴッホは日本を愛し浮世絵を集めたから、次兄も浮世絵収集家、研究家としてゴッホに愛着を持ったのだと思う。

私が浮世絵収集をしたのもゴッホを知ったのも次兄の影響である。

しかし、ゴッホに関しては独自に調べていくうちに、ゴッホだけではどうしても無理が来て、印象派も調べなければいけなくなった。

私自身の結論から言うと、近代絵画や現代絵画はよくわからない。しかし、印象派の絵画を勉強すれば、絵画の見方が分かるようになり、近代、現代の絵画も分かるようになる。

だから、美術館に行って絵画を見るのなら、印象派を勉強しなければほとんど意味がないということになる。

浮世絵にしても、ゴッホだけが浮世絵を愛したわけではなく、この時代、東洋ブーム、特にジャポニズムが芸術家に影響を与えた。

特に印象派の画家に影響を与えたし、印象派に対立するアカデミー絵画でもジャポニズムは受け入れていた。

印象派の中でも、印象派の生みの親と言われるマネは浮世絵によって絵が変わったと言っても過言ではないし、自らの絵の中に浮世絵も入れている。

特にゾラを描いた絵は、浮世絵と西洋絵画とマネが描いた『オランピア』の版画を壁に貼っている。

これは東洋の代表芸術浮世絵と今までの西洋絵画の合作によって自分のオランピアができたと言う暗示になっている。つまり東洋と西洋の合体がマネのオランピアだと言うことだ。

マネは、絵画になぞかけをする画家でもあったので、こういう面白い絵をいくつも描いたし、浮世絵が描かれなくても、明らかに影響を受けたと言う絵を何枚も描いている。

ゴッホと印象派を書いた文にはそういうことを書いたのだが、ここでは仏教のことが中心となったので、書いてはいない。

マネ以外でも印象派の代表、モネはゴッホ以上の浮世絵の収集家で、それも北斎、写楽、歌麿など、現代、高値と言われている浮世絵を数多く収集した。

そして、その浮世絵を晩年過ごしたジベルニーの自宅に飾った。

今でもジベルニーのモネの家に行けば、壁に飾ってあるレプリカの浮世絵を見ることができる。

それ以外にも浮世絵と印象派の画家のエピソードは色々ある。ゴッホだけにとらわれず、この時代を勉強すればかなり面白いと思う。

一応、これからはコメント欄もチェックするようにします。

また、遅くなりましたが『転生したらゴッホの弟だった』を書いた欄にそのコメントを表示しました。