次兄と私の歴史27

2017.11.24 Friday | by kawa-su

四箇格言の残りの二つ、律と真言だが律とは戒律のことである。戒律とはキリスト教系で言えば十戒だ。
つまりしてはならないことだ。今の世界で言えば法律でもある。
法律は破る人がいるために作られる。
普通、盗んだり殺したりなんて人はしない。でも1000人もしくは万人のうち1人はそういうことをする。そうなると、その一人のために法律は作られていく。
最近できたストーカー法なんかもそうだ。
普通の人にとって常識的なことでも、あるパーセンテージの人たちには常識ではないのである。
だから世界の安定を求めるためには律が必要となる。
どんな世界でも、世界がつくられると一緒に律は作られる。
そうしなければ、その世界が安定しないからだ。
だからこれは必要悪でもある。
隣国に北朝鮮みたいな国があると武力も必要だと言うことに似ている。
もちろん、レベルが上がれば武力なんて必要ない案も出てくるかもしれない。それと同じように宗教団体に律が必要ないと言う世界もあるかもしれないが、今はそのレベルに到達していないので律は必要になる。
日蓮が律国賊だと言ったわけは、当時は律宗が戒壇を持っていたので、宗教の権力の象徴でもあった。だから、ある意味、日蓮の嫉妬でもあるし、伝教も比叡山に戒壇を作るのに苦労したし、日蓮に至っては戒壇なんて完全に無理であった。
日蓮が日本国が法華経を受持しなければ法難が起こると脅したのも、戒壇を造りたかったためである。
ちなみに仏教の律とは
1、不殺生戒(ふさっしょうかい 生きものを殺してはならない)
  2、不妄語戒(ふもうごかい 嘘をついてはならない)
  3、不偸盗戒(ふちゅうとうかい 盗んではならない)
  4、不邪淫戒(ふじゃいんかい 姦淫してはならない)
  5、不飲酒戒(ふおんじゅかい 酒を飲んではならない)
なのだが、これを一つでも守っている僧はいないだろう。
また、生きる上でほとんどの人がこの五戒を破っている。もともとこの世界で生きるにはこの五戒は無理があるのだ。
それでも、この五戒を守る僧がいるのなら、それに意味はないのだが、特別な存在としてもいいと思う。
天皇だって、特別な存在にされ、不自由な生活を送っているが、国民は尊敬と愛着を持っているだろう。
僧だって、五戒を守るのなら特別な存在としてもよいのだが。

 


次兄と私の歴史26

2017.11.23 Thursday | by kawa-su

前回から話は戻って四箇格言に戻る。
それでは、四箇格言に出てくる、真言、禅、念仏、律とはどういう教えなのだろうか。
禅宗は誰もが知っている座禅を組む修行である。
起源はインドから中国に渡った達磨大師である。
禅は鎌倉時代、
武士の間に広まった。そして茶も広めていった。
利休に始まるわび茶は秀吉の時代に、世に広まったが、茶はもともと禅宗により広まったのだ。
次兄のところではお茶会を大事にするのだから、日蓮の四箇格言はもう関係なくなっていると思う。
もともと禅は釈迦が菩提樹の下で大吾を得たときに禅をしていたのだから、これを否定するのはかなり無理がある。
確かに、禅(瞑想)をしていると妄想が始まり、動物霊などが寄ってきて偽悟りなどを言ってくるので天魔と言えば天魔かもしれない。釈迦も最後に第六天の魔王が来たと言うし。
しかし、この行は出家者がやる行の一つなので仏教がこれを否定することはできない。例え天魔が来たとしてもそれを打ち破るのが禅のはずだから。

また、梵我一如も禅により可能なのだ。
念仏はもともとものすごく難しい行であった。禅よりも大変な行だったのである。
念仏とは仏を念じる、仏の世界を念じて目の前に仏の世界を出す行なのだ。
仏の世界が出現したらその中にエイッと入り釈迦の教えを聞くのである。
釈迦の経が如是我聞で始まるのは、我、如の世界に入り聞いてきたと言うことである。
一般的に言われている、かくの如き我聞けりではないのである。
如の世界とは仏がいる世界である。
だから、如の世界からくる仏を如来と呼び、娑婆世界から去って行く仏を如去というのである。
釈迦滅後、たくさんの経ができた理由を言うのならこれしかない。つまり、全ての経の初めに如是我聞と書き、私は如の世界に行ってきて釈迦の教えを聞いてきたのでこれは釈迦の教えだと言うことだ。
これほど難しい行を法然は南無阿弥陀仏と唱えれば極楽浄土に行けると説き、親鸞は、もう救われているのだから南無阿弥陀仏と唱えなくても極楽浄土に行けると説いた。
ある意味、簡単な行でもある。それで言えば、日蓮も南無妙法蓮華経と唱えればいいと説いているのだから、論理的には同じだ。ただ、阿弥陀仏か妙法蓮華経の違いだけだ。
もともと平安時代には、朝に勤行夕べに念仏と言っていたほど、念仏と勤行(南無妙法蓮華経)は身近なものだった。
それを、日蓮と法然、親鸞はもっと身近なものにしたのだ。
最も、親鸞は庶民に対し情から念仏を広めた。    
前に書いた通り、親鸞は仏教を信仰できる支配者階級ではなく、仏教を信仰できない支配される側を憐れんで、あなたたちが、阿弥陀様が救わないわけがないと言ったのだ。
だから、鎌倉時代で言えばやはり親鸞が、一番レベルが高かったようだ。
そして、念仏と言えば一遍の時宗もある。
そして時宗の僧の号(法号)に阿弥がある。
この阿弥の名前を付けたのに、室町時代、能阿弥、芸阿弥、相阿弥と続く絵師の一派がある。
墨絵を確立したこの一派は茶道では欠かせない掛け軸の一派でもある。
つまり、これも次兄の世界では必要なので、次兄の世界では認める存在なのだ。
日蓮が排除した各宗派のうち、念仏と禅は次兄も認めていると言うことになり、次兄の世界も日蓮とは変化していると言うことでもある。
また、日蓮が念仏無限と言ったのはある意味正解でもある。
これは念じるだけという行為は念仏だけではなく日蓮系もキリスト系も同じだ。
世界平和を念じましょうなんて言うのも。
念じただけで世界平和が来るのなら誰も苦労はしない。
世界平和のために努力している政治家や経済界、教育界があるから、一歩ずつ人類は世界平和に向かっているのだ。世界を変えるには実際に動いて努力しなくてはならない。それを、世界平和になったのは私たちが念じていただからなんていわれたら努力していた人達が報われない。念じているだけなら世界は変わらない。だから念仏無限も間違ってはいない。

 


次兄と私の歴史25

2017.11.22 Wednesday | by kawa-su

日蓮の教えで四箇格言というものがある。
いわゆる真言亡国(しんごんぼうこく)、禅天魔(ぜんてんま)、念仏無間(ねんぶつむけん)、律国賊(りつこくぞく)の四つだ。
日蓮系の教団はこの四箇格言で日蓮の教え以外はみな邪宗だと言う。
果たしてそうなのだろうか?
日蓮系の言い分は検索すれば出てくる。
いわゆる、自分の教えが(法華経)いかに優れているかを言いたいのだが、自分勝手に理屈をつけているにしか過ぎない。
もし、釈迦が悟りを開いた後にたくさんの経を説いたと言うのなら、その教えにおかしいのがあるわけがない。
今の宗教団体にしても、教祖が言うのはすべて真理だと言っているのと同じだ。
それを、若いころの教えはレベルが低いので間違っている、というのを納得する方がおかしい。
釈迦は大吾を得た後に説法するので、その説法はすべて仏の言葉のはずである。
教えを大衆に合わせたからレベルが低いと思う人もいるかもしれないが、レベルが低いのではなく、大衆に合わせ、悟りを教えるのは逆にレベルが高いのである。それに、もしレベルが低かった場合は、そこに心情が入っているもので、レベル以上の価値がその教えに入っている。
仏教が中国に渡り、どの経が一番優れているかを僧たちが研究し、天台智擇有名な五時八教を発表した。その五時とは、華厳時(けごんじ)・阿含時(あごんじ)・方等時(ほうどうじ)・般若時(はんにゃじ)・法華涅槃時(ほっけねはんじ)の五期である。すなわち、これも天台智擇、法華経が一番優れている経だと言いたいがための論理である。
初めに法華経ありの論理でもある。
最初に書いた通り、全て釈迦が悟りを得た後の教えならすべて何かしらの意味があるので、そこに差別はないのである。
また、正法、像法、末法という観念も中国人が作り出したものだ。インドではそんな教えはなかった。いわゆる後付けだ。
釈迦が悟りを得た後に説いた経なら時間が経てば消えていくと言うものではないだろう。実際、新興宗教の教祖は、自分の教えは未来永劫続くと言っているだろう。
つまり、普通に考えて大吾を得たと言うのは、この宇宙の真理を得たと解釈できるのだから、その教えが時間とともにおかしくなるなんてありえない。
また、末法では釈迦の教えが、意味がなくなる、仏の力はなくなるみたいな教えも、普通に考えればあり得ない。
まあ、仏の力なんてたかが知れているが。仏とは力ではなく智慧の象徴なのだから。

 


次兄と私の歴史24

2017.11.21 Tuesday | by kawa-su

そろそろこの次兄と私の歴史シリーズも終わりに近いのかもしれない。
 ここで私が一番言いたいのは、次兄の残したもので5かん行という仏教の出家に等しいくらいの行があるのだから、それを実践、もしくは残すことに次兄の信者は努めてほしいと思っている。
 5かん行の初めの缶行は、空き缶拾いでもいい。形をマネすることしか考えられない人はマネから入っても、何もしないよりはいいと思う。
 ただ、本当の缶行は、周りが誰も理解しなくても、自分がこの世界にとって良いことだと思ったら、全て捨てて突き進むことだ。
 だから、仏教の出家相当な修行ともいえる。
 沖縄で、サンゴ礁を人工的に増やそうと努力している人がいる。
 昔の沖縄の海を取り戻したいと言う願いからだ。
 この人は、飲食の店で儲けて、何軒も店を出すほどになった人である。
 初め、軽い気持ちで人工的にサンゴを増やそうと思ったはずだ。
 しかし、取り組むとお金がかかり、とうとう店で儲けたお金まで吐き出すようになり、店も何軒か閉めたと思う。
 そうなると、周りは非難か嘲笑しかない。誰も理解してくれない。それでも何とかやり抜き、人工的にサンゴを増やす方法を見つけたら、マスコミが取り上げ、収入も出るようになった。すると周りも彼をほめたたえるようになる。
 この例は缶行でもある。
 このような実例は世間ではいくつもある。
 だから、缶行とはすべて捨てる決心をするほどの行である。
 そうなると、次兄の世界も捨てると言うことになる。
 確かに、本当の缶行は捨てなくてはならない。しかし、行とはどんな時代でもできる人と無理な人に分けられる。
 仏教では、修行できる人と助ける人と言っている。そして助ける人は来世で修業する人になるのだ。
 また、修行をする人を助ける人、一緒にやる人も出てくる。
 次兄が空き缶運動をしたときの、私、弟、吉〇さんがそうだ。
 これもありだと思う。
 何かしらを始めるとき、数人で始めるのはよくあることだ。
 それでも、自分の缶行が見つからない人は、空き缶拾いでもいい。そして、何かをやれば必然的に巻行に移っていく。
 空き缶拾いではなく、最初から館行でもいい。
 自分で家を建てたら、学ぶことも智慧も出てくるから。
 家を建てたら、里づくりが重要だと分かる。だから次のステップ、里づくりも目指すだろう。
 この時重要なのは、資金があるかどうかだ。資金があれば智慧は必要ない。すべて金の力で何とかなってしまうから。だから、何もやらないよりは素晴らしい幸せを味わい、苦労もしないので楽しいと思う。それも、何もしないよりはいいと思う。
 しかし、本当の館行とか感行は、智慧で何とかしていくものだ。
 資金がなければ、山の自然を利用して生活費を稼ぐ知恵を出すと思う。
 海に行き、ガラスの破片や古木を拾って、それをネットで売って生活をしている人もいるのだから、智慧を出せば、お金がなくても何かを見つけられる。
 つまり、お金がなければ知恵を出すしかなく、その知恵を出させるのがこの行の目的なのだ。
 そして、その結果がうまくいき、成功していけば次の観行が分かるようになる。
 観行とは観自在菩薩の行でもある。
 ここで、観世音菩薩ではなく観自在菩薩と記したのは訳がある。
 観世音菩薩、いわゆる観音様は鳩摩羅什が訳したもので、観自在菩薩は玄奘三蔵が訳したものだ。
 鳩摩羅什は観音を「アヴァローキタスヴァラ」と訳した。これは、「アヴァローキタ」が「観」、「スヴァラ」が「世の中のすべての音」なので観音となる。
 ところが、玄奘は「アヴァローキテーシュヴァラ」と訳した。
 これは「アヴァローキタ(観)」と「イーシュヴァラ(自在)」とに分解できるので、「観自在」と訳したのである。
 つまり、イーシュヴェラかスヴェラかなのだが、これをサンスクリト語で見るとほんの一字違うようなものなのだ。
 鳩摩羅什は音で見るとしたかっただろうし、玄奘
は自在に見るにしたかったのだろう。
 次兄は観音の方を取っていたが、これを観行で見るなら観自在の方がしっくりくる。もちろん観音も捨てがたいが。これは、ここまで到達した人なら自ずとわかるだろう。実は、私自身も理論は分かるが実践ではまだ習得していない。今の時点では感行までしか進んでいないからだ。
 次兄の残した組織が無くなるのならそれも運命だろう。
 もし残るのなら吉〇さんを補佐するものが出てこない限り難しいだろう。
 吉〇さんは穏健な人で、ある意味良い人だから、実務や形を造る補佐がいなければどうしようもなくなると思う。
 果たして次兄の信者でそのような人が出てくるかはわからない。
 次兄の組織が無くなろうと存続しようと、私は関わる気がないので関係ないのだが、次兄がこの世界でやったことがすべて無に等しくなると言うのも寂しいかなと思うだけだ。

 


次兄と私の歴史23

2017.11.20 Monday | by kawa-su

日蓮は法華経を国が国教としなければ、他国侵逼難が起こると予言した。
 実際、蒙古が日本に攻めてきて、日蓮の予言は当たったかのように思えたが、実際は、日蓮は、他国が攻めてきて日本は滅びると予言したのだ。だから、神風が吹いて日本から蒙古が去ったのを聞いて、一番驚いたのは日蓮である。
 次兄も、やはり輪廻だろうか、同じような道になっている。
 核戦争が起きるかは疑問だが、それで日本が滅ぶことや世界が滅ぶことはないだろう。
 日蓮が、日本が助かった時点から日蓮は今世での戒壇はあきらめ、弟子にそのことを託すことになる。だから、それ以後の日蓮の生き方は穏やかだったと思う。
 次兄の世界も弟子次第になってくるだろう。
 このまま次兄の世界は何もかもなくなる可能性もある。そうなると次兄はもう転生ができなくなるだろう。
 この世界が消滅するのではなく、次兄の世界が消滅するのである。
 次兄はいくつもの組織を作っている。詳しくは知らないが5〜6あるのではと予想する。
 その中の中心は、ふるさと村株式会社と歌川派門人会だろう。
 次兄の力が無くなったとき、これらの組織はどう動くか予想はできる。
 まず、会はそれぞれ独自で独立しようと、ふるさと村は言うと思う。なぜなら、ふるさと村には不動産があるからだ。しかし、門人会もそれに賛同したら、それは怪しい。表向きは門人会には財産がないはずで、それでも、門人会が独立したいと言ったらとても怪しい。次兄の財産を盗んだ可能性があるからだ。
 ふるさと村は、不動産を処分し、自分たちの生活を何とかしようと考えるだろう。これは理解できる。
 何しろ、今の時点で、ふるさと村関係者は乞食のような生活を送っていると聞いたから。(この言い方は語弊があるかもしれない。立派な暮らしをしている人には申し訳ない)

ただそうきいただけで、その通りなら、当然何とかしたいと考えるはずだ。
 門人会が独立したとしたら、表向き何も財産がないように装うが、いずれ、全ての会が消滅し、縁も切れたら、徐々に次兄の宝物を処分し我が世の春になると思っている可能性もある。

あくまで可能性で、そんなことはないと信じたい。
 しかし、もし、私の予想が当たっていたら、その行為は大きな間違いだ。
 次兄の宝物には大きな力が備わっているし、怨念も恨みも入り込んでいるから、次兄の力が無くなったら、それらが湧き出てくるだろう。
 宝くじが当たった人が、生活が一変し、逆に不幸になったなんて話はよく聞く。自殺したなんて話も出てくる。
 次兄の宝物を盗んだら、それよりも、もっとひどい結末になる。
 何しろ、この世界の法も破り盗人にまでなり下がったのだから、普通の人なら神経が持たなくて気が狂うだろう。大丈夫なのは魔だろうが、それでも次兄の力の方が強いから、その魔もいずれろくな死に方をしないはずだ。
 だからそれはそれでいいかもしれない。
 他の組織も次兄に力が無くなったらお金を返せと言ってくるだろう。しかし、次兄は証拠になるようなものは絶対に残していないので、それは徒労に終わるはずだ。
 そして、内部分裂。内部での醜い争いが起こるだろう。
 それを退けるには、信者が一体となることだ。
 今世はもうだめだが、次兄の世界の来世に期待して次兄の残したものを守り抜くことだ。
 それは前にも書いたが、5かん行だ。
 それを守り抜くことが弟子の務めだろう。
 もちろん、次兄の世界はもうこりごりだと言う人は、自分に合う世界を見つける方がいい。人それぞれだ。
 そして、次兄の世界を残し、一致団結するには、唯一のウィッピー吉〇さんをウィッピー2代目とし纏まっていくしかないだろう。もちろん、ふさわしい人が出たら三代目を吉〇さんが譲ればいい。
 私には関係ないことだが、縁をした以上気にはなる。だからと言ってもう関わる気はない。

 


次兄と私の歴史22

2017.11.19 Sunday | by kawa-su

次兄は核戦争が起こり、この世界は滅亡すると言う。
未来は誰も分からないから、次兄の言葉を否定することはできない。
ただ、未来予言は、今の世界に生きている人によっていかようにも変わるから絶対ではない。
私は核戦争が起こってもかまわないし、万が一起こったら、私の上にミサイルが落ちてほしいと思う。
悲惨な世界になったら、そんなところで生きていたくないから。
私は死の一歩手前まで行ったことがある。
私が望まなかったが、強引に難病と言う難行をさせられたから。
その時、死は全く怖くなかった。
怖いのは苦しむことだった。
だから死と苦しみを選ぶなら死を選ぶ。
この世界が、今世だけだと思っている人は少ないだろう。
今世だけだと、本気で思ったなら、この世界で好きなように生きるはずだ。悪いことでもばれなければいいと考えるはずだ。何しろ何をやっても今世ですべて終わりなのだから罪も徳もない。
ところが、ほとんどの人は潜在意識で来世、もしくは天国みたいな場所はあると思っている。だから、進んで悪いことはしないのだ。
来世があるのなら、今世の死は納得ができれば問題ないはず。
核戦争で死ぬのなら、これはもう仕方がない。創造神がそうしたのだから、この世界に住む以上それに従うしかない。
だから、そういうことは問題ない。
問題は、この世界で、ちゃんと生きてきたかということだ。
この世界に生まれるからには、みんな目的があったはずだ。
大恋愛をしたい、大金持ちになりたい、人を助けたい、悟りを開きたい、何しろ楽しくいきたい等々、なんでもいいが、何かしらの目的があるからこの世界に生まれてきたのだ。
その目的を忘れ、欲や我に捉われ、やるべきことをやらないで死んだら、それは後悔するし、悔しい気持ちになるだろう。核戦争で死ぬことより、全然そっちの方が怖い。
だから、次兄が核戦争でこの世界が終わりだと言っても、何も怖いことはないのだ。怖いのは自分自身のことだ。それに、万が一そのような道を進んでいたとしても、今生きている人の進み方で未来はどのようにでもなるし、仏が遊んでいるこの世界を創造神が壊すとも考えづらい。だから、この世界は来年も続きます。

 


次兄と私の歴史 21

2017.11.18 Saturday | by kawa-su

次兄にとって宝物は前に書いた5かん行なのだが、今の次兄には美術品のようだ。
次兄はことあるごとに自分が収集した美術品を自慢しているし、次兄が収集した美術品は絶対外には出さない(売らない)としている。
確かに次兄の美術品は素晴らしいのもたくさんある。
しかし、その美術品を売らないし、誰にも見せないのなら、次兄だけが楽しんでいる世界ということでもある。
この美術品のほとんどは(すべてと言っていい)20年以上前に集めた。特に、浮世絵を売って、次兄の世界がバブルになったときに手に入れた。
次兄は東海鋼の株でもうけたと言っているが、実際は違う。
浮世絵バブルの時代の儲けと信者の布施の金で手に入れたのだ。
私も次兄に1億1千万円渡しているし、家を売ってそのお金を渡している読者もいる。それに浮世絵を5千万円以上売っていた読者が5〜6人はいたと思う。
私は浮世絵を大量に売っていた読者に忠告はした。
少しは自分の財産にしないと後で困るよと。
ところが、そのころの読者は純真で、そんなことはできないと言っていた。
実際、仕組みもそうなっていたので、浮世絵のもうけが読者には行かないようになっていた。
表向きは、浮世絵を売ると読者にも手数料が入ることになっていた。
手数料と言っても何千万と売っている読者は1000万円以上の手数料を表向きはもらっていたはずだ。
ところが、その手数料を自分のものにしてしまうと周りの会員から白い目で見られるのだ。それでも頑固に自分のものにすると、誰かが寄っていき説得して布施させるのである。
さすがに私に言ってくる会員、読者はいなかったので、私は次兄に渡す分と自分で家を建てる分は分けていた。
それでも9000万円で家を売ったら3000万円は次兄に渡していたし、総合計では私が次兄にお金を一番渡していたのだ。
つまり、次兄が所持している美術品はそのころのお金と信者の布施で手に入れたもので株のもうけではない。
そのころ、次兄が東海鋼で儲けた金はたかが知れている。
なぜなら、上がり始めたら嬉しくて全部売ってしまったからだ。
東海鋼は40円前後で次兄を初め読者全員で5千万円以上は買っていたはずだ。
東海鋼から、大株主としてあいさつに来ていたから。
40円前後が長い間続いたので、おそらく2〜3年は上がらない時代が続いた。上がり始めたらすぐに売り出してしまった。70円になるまでにほとんど売ってしまった。
私の知る限り、読者が上がったのを何も知らないで1万株、500円くらいまで持っていたのが最高値であった。
その後、東海鋼は1000円を超えたので、今となっては東海鋼で儲けたと言っても嘘には聞こえないのである。
しかし、その時、東海鋼以外に三光汽船も株を買っていたし、こっちの株の方が本命であった。ふるさと村情報にも三光汽船のことは書いていた。
三光汽船は自民党の領袖がオーナーだから絶対潰れないと言い、読者にも相当買わせた。ところが倒産した。この損失は東海鋼のもうけを明らかに上回っていた。
私も1000万円以上損をした。
ただ、次兄の良いところは、この三光汽船の株券を持ってくれば、何かしらと取り換えはした。やはり責任を感じてはいたのだろう。私はもちろん次兄に株券は渡していないが。
だから、次兄が持っている美術品の真の持ち主は、全財産を布施した人、もうけを渡した人なのだが、理由が何かしらあってお金を貸した人もここに入ると思う。
次兄は自分では絶対に金を借りないし、借り手も第三者が中に入っていて、次兄に借りた証拠が残るような真似は絶対にしていない。
全てが口約束なので、次兄と本人以外は誰も知らないと言うのが多い。
だから、読者や信者が次兄のところを離れその金を返してくれと言っても絶対に戻らない。
裁判をしても絶対勝てないようにしている。
リスクを自分のところに持ってこないやり方は徹底していた。
だから、去って行った読者が例え裁判をしても勝てないし、逆に次兄の方から訴えられて負けてしまう読者もいるのだ。
実際の例も私は知っている。
口約束で、お金を渡して家をリフォームしたが、次兄の元を離れると、そのリフォーム代を払えと言う裁判をされてしまうのだ。
ただ、次兄の方も、全て取ろうと言うのではなく、調停で妥協案を出してくる。私は、その妥協案に乗れとアドバイスはした。実際、今の法律では次兄の言い分が通ってしまうからだ。妥協案と言っても浮世絵をよこせ位なのだから、次兄にとっては甘い妥協案ではある。さすがに、良心がとがめたのだろう。
私にしても次兄にお金を渡したときに、これは美術品で返すからと言われ、もちろん美術品などはもらわないでそのままになっている。しかし、それを証明するものがない。さすがに一筆書いてくれなんて、その時は絶対言えないのだから。
それと同じように、次兄に口約束でお金を貸している人は多いと思う。しかし、今の法律では絶対にその金は戻ってこない。次兄の美術品を売ったときに状況証拠で訴えるしかないのだ。
私の場合は、状況的に渡しただろうなあという証人はいる。
もし、次兄が亡くなり、次兄の美術品を整理する段階になったとき、その美術品の所有者は誰になるかはもの凄く問題になる。
次兄は信州に次兄だけが入れる個室を持っていて、そこに美術品を置いている。だから、そこの部屋にある美術品は次兄の家族に権利がある。
本来は、次兄にお金を貸した人や、布施した人に権利があるのだが、今の法律では遺族に行ってしまうのだ。
それは、許せないと言う者も出てくるだろう。
しかし、次兄がどんな美術品を持っているか、読者や信者にはわからないし、次兄の妻も分かっていない。
だから、誰かが次兄の個室から美術品を盗んで違うところに隠したら分かりようがないのだ。
でも、私と生〇だけは次兄の個室に入ることができ、中にある美術品も全部見て知っているのだ。
そして、そのことを古い読者は知っている。
今は、生〇はいないので、次兄を除けば、私だけが次兄の美術品に何があるか知っているのだが、生〇が去ったとき、というより、生〇の代わりが出てきたから、生〇は去ったのだろうが、その生〇に代わるものは次兄の個室の鍵を持っているだろうし、美術品も何があるか把握しているだろう。
つまり、次兄が亡くなったとき、生〇に代わる者がすべて次兄の美術品を取る(盗む)ことになる可能性が高い。
もちろん、一人でそんな大それたことはしないだろう。周りのだれかがそそのかすだろう。それも生〇関係者だろう。
それが、生〇一派の目的だったから。
そうなると、次兄にお金を貸した人、渡した人などは戻らない金となる。
もちろん犯罪が立証されれば、戻る可能性はあるが。そこまでしないでいい解決策が出ればいいのだが。

 


次兄と私の歴史

2017.11.17 Friday | by kawa-su

この次兄と私の歴史を読んでいる人で私の賛同者はほとんどいない。
なぜなら、次兄の信者にとっては、私は悪者だし、その悪者が次兄をほめたたえた文章を書けば賛同もするかもしれないが、このように公平に書いているので、非難の目でしか読まないだろう。しかし、いずれ、私の書いたこの文章に納得する信者も出てくると思う。
反対に次兄の元を去り、次兄を非難している人にとってこの文章は物足りないだろう。もっと非難しなければ自分たちは納得しないと思っているはずだ。
しかし、私はどちら側でもない。私は私の意見を述べているだけで、それを受け入れれば納得すればいいし、そうでなければ非難すればいい。
次兄の信者たちの中にもまともな人がいて、いずれ、私の文章を唯一の灯になると思う人もいるかもしれないし、次兄を離れた者は私の文章を読んで、次兄の世界が地獄だった人は、一刻早くも離れて自分の世界を創るか、もっと良い世界を持っているところに行くべきである。
自分で世界を創れば、トップに立つ者の苦しみも分かるはずである。もちろん、それで次兄を理解しろとは言わないが、トップというものが、下にいた時とは違うと言うことくらいは分かるだろう。
私が次兄の世界で悪者にされているのは訳がある。
これまで、次兄を非難する者の後ろに私がいて、操っていると勘違いしているからだ。
調べればわかるが、私は一切関わっていないし、関わるほど馬鹿ではない。
はっきり言って、次兄の世界は卒業したので、関わりたくない。非難する行為は、関わると言うことでもある。
今、特別な時間が来たので、これを書いているが、いずれこれも終わり、完全に縁を切ると思う。
もし、私が次兄を恨み、やっつけたいと思ったら、裏で脱会者を操るなんてことはせず、自ら次兄に金を返せと言う。
今は次兄の元を離れて20年以上たってしまっているから、金返せと言っても忘れたとか、時効と言われ、まず相手にされないだろうが、次兄の元を去った時なら、さすがに次兄も忘れたなんて言えない。特に、銀の倉荷証券を貸したのは次兄もはっきり覚えているはずだから。
だから次兄も、表立っては私個人を非難できないはずだった。だから、私ではなく、私の周りを非難すると言うことをしていただろう。
そして、それを証明するはっきりした事実もある。それは、大町の家を建てたときのローンの連帯保証人が吉〇さんということだ。
私は、このローンがきつくて、もう払えないとなったとき、銀行に行き、残金は競売にかけて終わりにしてくれないかと頼んだ時がある。競売にかければ残金を回収できるところまでは返していたので良いアイデアだと思ったのだが、銀行の返答は、そうなったら債権は自動的に別会社の債権回収会社に行き、連帯保証人に返してもらいますから問題ないですよと答えた。
連帯保証人、つまり、吉〇さんに残金を請求するから銀行は問題なしというのだ。
私が次兄を落とし込めようとするなら、絶対にそうするだろう。
しかし、私は吉〇さんに迷惑をかけられないと思い、歯を食いしばって残金返済をした。
そして、この連帯保証人がなぜ吉〇さんがなったか?
答えは簡単である。次兄が吉〇さんになれと言ったからだ。
次兄に言われれば吉〇さんもハイというしかない。
そして、なぜ次兄が吉〇さんに連帯保証人になれと言ったか。
これも答えは簡単。
私が銀行からお金を借りることができたら、その中から必要なお金を引いた残りは次兄に渡すことになっていたからだ。
6000万円借りても利息を入れると8000万円くらいになる。
そして、私が必要としていたお金は、セキスイハイムの家の移動費と、内装のお金で2000万円。新たな土地習得のお金が1800万円。約4000万が必要で、残りの2000万円は次兄に渡す約束だったのである。
家の基礎代金は、いわちゃんが、業者と交渉して浮世絵を渡すことで済んだし、セキスイハイムはつてがあったので、家はただ、移送費を払えばOKだったのだ。
だから、6000万円を借りても4000万円で済む予定だったのである。
これらのことは、今は忘れているだろうが、私が去った後の数年は次兄も覚えていたはずだから、私が請求したら、それは恐ろしいと思っていただろう。
もちろん次兄は、証拠を残すようなことはしない。だから状況証拠で攻めるしかないのだが、私が次兄の元を離れた頃ならば、状況証拠で調停に持ち込み、ある程度のお金で和解になっていたはずだ。
これは、裁判を経験した者ならわかるはずだ。
しかし、私はそんなことはしなかった。兄弟で争ったら両親が悲しむし、次兄の世界とは関わりたくなかったからだ。
私がなぜ次兄にこれほどのお金を渡したか。次兄の純粋な信者なら納得するだろう。
私も信者であったし、難病を発病し、大町の開発センターに行き、一応看病されたから次兄にお礼の意味もあって、そうしたのだ。実際は、開発センターにいた看病する者はひどい対応で、そこを逃げ出すしか手はなく、私がローンで家を建てた場所には数年前に小さな家を建てていたので、そこに逃げ込んだのだが。
それでも、次兄のそばにいようと決心をしたから、その大町の土地に大きい家を建てようと思ったのだ。結果は、家がもう完成という前に、次兄が、なぜカラオケに来なかったと3時間も怒鳴り、ここを出なければ死んでしまうと思い離れたからその家は1日も住んではいなく、8000万円をただ返済しただけで、今では売れもしない不良物件となっている。
それと次兄の世界で一つ弁護もある。
どんな世界でも、表と裏があり、表だけ見れば立派な世界だが、創成期はほとんどの世界に裏があるものだ。
だから、裏だけ見れば非難だけしかないが、それは次兄の世界だけではない。
よい世界に入れるかは運である。もしくは、守護霊の示す道を素直に行けた時であろう。
ある意味、結婚と似ている。
結婚だって運である。
大恋愛をして結婚したから幸せになれるものではない。むしろ、大恋愛をした者はそこがピークだから、結婚後はどんどん下がるだけで失敗する可能性が高い。
だから、結婚時は分からないものである。意外と見合い結婚の方がうまくいくのだ。
見合い結婚だと初めからリスクを考えているから、良いことがあると、必要以上に喜ぶし、相手をよく知らないから思いやりも出てくる。
それに相性もある。
次兄の世界を地獄に感じた人は相性が悪いと言うこともある。次兄の元を離れた人は、みんなそうだと言いたいだろうが、相性がいい信者だっているはずだ。そのような者は、次兄の世界で満足しているのだから。

 


次兄と私の歴史

2017.11.16 Thursday | by kawa-su

次兄が法華経を説くことはもう不可能だと思うが、次兄は法華経よりも、もっとレベルの高い教えを説いている。
それは五かん行である。
缶、巻、館、感、観の五つの行を言うのだが、今の次兄の信者は、名前は知っていても中身はよくわからないだろう。なぜなら、次兄の信者で家を造っているなんて聞いたことがないからだ。
この五かん行の初め、缶行は、昔は空き缶を拾う運動であった。しかし、今、空き缶を拾ったからと言ってこの缶行をしているとは言えない。
時代背景があるからだ。
私と次兄と弟と吉〇さんが空き缶を拾った時代は、その行為を誰も認めてくれない時代であったし、空き缶が資源だと誰も認識していない時代であった。
後に、次兄の読者が空き缶を拾ったが、これは形をまねただけで、本質的には缶行ではない。それでも、その時代は形だけでも何かしらを得ることはできた。
仏教の、正法、像法、末法と同じである。つまり、正法が私と次兄と弟と吉〇さんがした運動。像法が、読者がした空き缶運動。末法が現代の信者が空き缶を拾ったとしても、もう何も意味がないと言うこと。
もし、現在、この缶行をしたいと考えたら、誰も認めてくれないが、明らかにこの世界にとって良い運動であり、レベルの高い運動をしなければならない。
間違っても、次兄の教団の勧誘などではないから、これは勘違いのなきように。もちろん他の宗教団体も同じだ。この世界とは単純に全世界が認める世界のことで、一つの世界だけで通用するものではない。
私はこの缶行だけでも、仏教の出家に匹敵していると思う。だからこそ私は次兄の運動は認めているのだ。
次の巻行は、昔は次兄の本を広めることだった。ベストセラー作戦と言えばそのころの読者はよくわかっているだろう。
しかし、さすがにこれは缶行に比べればレベルが下がっているし、次兄の世界に都合の良い行としてしまっている。創価学会や幸福の科学がやるベストセラーと同じレベルになってしまっている。
本来の巻行は缶行を本などで確認する行、仏教でいえば声聞の世界がこの巻行なのだ。
釈迦も出家した後に、仙人に教えを請いに行っているが、それと同じだ。
現代で言えば、たとえば仏教を学ぼうとしたらあらゆる仏教関係の本を研究することでもある。もちろん、あらゆるとなると不可能だからレベルの高い仏教本を探していくことでもある。
次の館行は、昔は家を建てることだった。これは、自分で家を建てることで、素人ならログハウスが適していたので、読者の中の何人かは挑戦し、建てたものもいる。
これは、現代でも有効である。自分の力で家を建てるのは学ぶことがものすごくあるからだ。家でなくても館というのは、何か形を造ると言うことでもあるから、家に拘ることではないのだが、次の感行の里づくりに家造りはつながっていくから、やはり家造りが今のところは一番手堅い館行である。これは、仏教でいえば山の中の行であろう。
4番目の感行は、先に書いた通り里づくりだ。
昔は伊豆と兵庫で里づくりは挑戦した。しかし、どちらも失敗した。これは土地選びがまずかったから失敗したと言うのもあるし、まだ里づくりが分かっていなかったために失敗したともいえる。
次兄にしても家造りから自分ではしていないので、自分で提案しているのにその意味が分かっていなかったようだ。
最後の観行は里づくりをしていると、里づくりが4次元芸術だと気づき意味も分かるし悟ることもできるのだ。
この5かん行は次兄自身行っていないのだから、私を除いて誰もしていない。せいぜい館行までしかしていない。
都会を脱出して田舎に引っ越すのは、何の行でもない。ただの移動である。
都会から信州に引っ越すのは、確かに初めは感動するかもしれないが、我に返ったとき、寒くて雪の暮らしは、昔の人がその暮らしを嫌で都会に逃げたように、逃げたくなってしまう人も出てくるだろう。

 


次兄と私の歴史

2017.11.15 Wednesday | by kawa-su

菩薩の世界に入っていたのでいろいろ分かった。
十如是の最後、本末究竟等って、よくわからなかったのだが、これは、人生の最後に全てのことが走馬灯のようによみがえると言うが、これと同じようなものだ。
何かの世界の結果が出て、報われるか報いを受け、その世界が消える瞬間、幸せだったとか、悔しいとか、満足だったとか、不完全燃焼とかいろいろなことが出てくる、それが本末究竟等だ。
会社を定年になったとき、ある瞬間、サラリーマン時代のいろいろなことがよみがえり、しみじみとした心境を味わうだろう。そのようなものだ。
今回、それとは別に次兄の世界のこともだいぶ分かった。
次兄は、やはり法華経の当体だろう。
法華経を創り、鳩摩羅什となって翻訳し、天台智擇箸覆辰動貲飴粟蕕鮴發、最澄となり、唐に渡り、法華経を初めたくさんの経を日本に持ち帰り、戒壇を目指し、日蓮となり曼荼羅を表した。鳩摩羅什の時は、本当に誰もが認める、国も認める大天才だったと思う。天台智擇了だってそうだし、最澄の時だって超エリートだったから唐に渡ることができたのだ。それに比べると日蓮は天才だったかもしれないが国は認めなかったし、弟子も120人くらいしかいなかった。だから、天台や最澄に比べれば、だいぶ落ちぶれてはいた。
次兄が天才に拘ったり、学歴に拘ったのも前世のことが何かしら残っていたのだろう。だから、次兄はレベルの高い言葉はいくつも言った。
なぜ、そんなことを知っているのだろうと本当に不可思議だった。天台智擇簇桂猴綵困硫燭が次兄のどこかに残っていたのだと思う。
この世界はたくさんの世界があり、その世界一つ一つに神様がいる。
次兄も一つの世界を創った。それはとってもパワーがある世界だから、いろいろなものが寄ってきた。
もし、池田が次兄を創価学会に迎え入れたら、次兄は悪くても最澄や天台智擇里箸海蹐泙婆瓩譴燭世蹐Α
日蓮の時、曼荼羅のミスを犯したのだから、次兄は、1度、唐の時代まで戻り修正をしなければ先に進めなかったのだが、今世ではそれはかなわなかった。だから、来世にかけるしかないのだが、日蓮の時は六老僧を始め強力な信者がいたので日蓮は残ることができた。しかし、今世はどうだろう。
今から20年以上前の浮世絵の時代、次兄の周りには優秀な人材がそれなりにいた。
その優秀な人材を次兄は怒鳴り散らしていたので、さすがに優秀な信者ほど出て行ってしまった。
もし、この時、次兄が実力主義的な体制をつくったら、次兄の世界はだいぶ楽に進んでいただろうし、来世にもつながっただろう。しかし、その時に次兄は優秀な人材を全部切って(去って)しまったので、果たして来世がどうなるかわからない。
もちろん、私も次兄の元を離れて20年以上たつのだから、その後、それなりの人材が現れているかもしれない。
今の次兄の世界で私と縁があるのは吉〇さんくらいだから、もう完全に次兄の世界と私は縁が切れていると言っても過言ではない。
これは後で思い出したのだが、吉〇さんはウィッピーの結成式にも空き缶拾いにも参加しているただ一人の存在でもある。
だから、ウィッピーはいずれ吉〇さんが二代目となるのが筋であろう。
吉〇さんが2代目になれば、普通の組織となり、他の宗教団体とそれほど変わらない組織になるはずだ。
私は宗教団体にかかわる気はないが否定もしない。もちろん、宗教団体を仏教とは認めない。でも宗教なら、それは認める。宗教まで否定したら、この世界は成り立たないからだ。
天界の神に依存する存在を畜生というが、別に畜生自体が悪い世界とは言えない。
よく、この犬畜生と言い、差別的に畜生を馬鹿にするが、良い飼い主の犬や猫はその畜生の世界に大満足しているはずだ。駄目なのは悪い飼い主に飼われた時だ。そうなると畜生は地獄のような世界になる。
会社勤めをしているサラリーマンだって、良い会社に入っているのなら、自分はエリートだと思い幸せを感じているはずだ。しかし、その良い会社で幸せを感じているサラリーマンもいれば、そこに地獄を感じているサラリーマンも当然いるはずなのだ。
これは、人によって違う。だから次兄の世界も、人によって感じ方が違ってくる。
もちろん、大きな実績を上げたのに怒鳴られてばかりいたら、その人にとって、次兄の世界は地獄になっていただろう。だから離れる、脱出をすることによって、とりあえず地獄から人の世界に戻れるのだ。戻った後は違う世界に行き、新たなる畜生の世界に行くかもしれないし、自分で起業などして、自分の世界を創り自分が神様になるかもしれない。また、違う理由で地獄に落ちるかもしれない。ただ言えるのは、次兄の世界が地獄だと感じている人は、脱出することによって、その地獄は逃げ出すことができたのだ。
普通の人は、逃げ出せばほっとして、二度とその世界に関わりたくないと思うだろうし、縁も切りたいと思うだろう。
いろいろあって悔しい思いがあったとしても、関わらないことが今の自分の世界を守ることだと思うはずだ。
しかし、よほど悔しかったのか、次兄の世界を脱出できたのに、次兄を非難して関わりを持ってしまう人もいるようだ。
気持ちはわかるが、それをしているとずっと餓鬼の世界か地獄の世界だし、負けたら修羅の世界に落ちてしまう。たとえ勝っても、次兄のような世界を引き継ぐだけなのだ。それが幸せだろうか? そんな時間を過ごしてもったいないと思わないだろうか?
私も、宮城島時代、隣人のひどい仕打ちを受け、長年住み慣れた宮城島を脱出することにした。脱出した当時は隣人を訴えようかと思い弁護士にも相談した。
でも、そんなことをしなくて本当に良かった。隣人が今どのような状態だろうと気にしないことが一番幸せなのだ。もちろん、隣人がひどい目にあったなんて情報が来たらガッツポーズぐらいはするが。