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釈迦はゴータマさんと呼ばれていた

2010.01.04 Monday | by kawa-su
 

ちょっと考えればあたり前のことなのだが、釈世は在世当時、周りから、ブッダと呼ばれていたのではなく『ゴータマさん』と呼ばれていたのである。

「ゴータマさんはこのように言った」なんて、今の仏教信者にとっては違和感があるというより、嫌悪感があるかもしれない。私自身、初めてそれを知ったときは嫌悪感があった。

日本の仏教は、大乗仏教が、聖徳太子の時代から広まっており、その大乗仏教では、釈迦のことは、仏、如来、釈迦牟尼、世尊という尊称しかつかわれておらず、ゴータマさんなんていう呼称は考えられなかった。

例えば、妙法蓮華経序品第一では、如是我聞一時仏住というように、ある時仏は、で始まるし、方便品第二では、爾時世尊というように、その時世尊はで始まる。

これが、その時ゴータマさんは霊鷲山にて説法した。では仏教にならない。仏教は仏の教えでなくてはならないのであって、ゴータマさんの教えでは、あきらかにおかしいだろう。だから、釈迦滅後、釈迦の教団が仏教へと変わっていくにしたがい、教え()の中でゴータマと呼ぶのを改めさせていく。

そのシーンをここに紹介する。

釈迦が菩提樹の下で悟りを開き、その悟りを五人の仲間に説こうという場面がそれである。

「修行者よ如来に呼びかけるのに『名』をいい、また『きみよ』という呼びかけをもって如来に話しかけてはならぬ」

と、釈迦が五人の仲間にいうのである。この言葉にでてくる『名』はゴータマのことだ。又、ゴータマさん以外にも『君よ』と呼びかけられていたので、それも如来にいってはいけぬと禁じた。

仏教信者にとっては当然だと思う言葉だが、一般の人からしてみれば、なんて釈迦は傲慢なのだろうと、釈迦の人格を疑うだろう。もっとも、仏教信者は、釈迦は人ではなく、仏、如来なのだから『人格』以上の存在だから、当然だろうというと思う。

現代だって、会社の代表者は社長と呼ぶし、大学のおえらいさんは、教授と呼ばなければ失礼だろうというにちがいない。しかし、それはあくまでも役職であり尊称ではない。先生と言う尊称で呼ばれる職業も幾つかあるが先生と呼ばれる職業の人にろくな人はいない。先生と呼ばせて満足しているレベルの人たちである。それと同じように尊称を呼ばせて満足するのは仏教信者のいいぶんであって、人間釈迦という観点からみると、そのことにより、釈迦の魅力が失せていくのは事実であろう。しかし、心配しないでもらいたい。この言葉はあきらかに釈迦滅後、誰かがつくったものだと思われるからだ。如来という尊称が、釈迦滅後の時代につかわれているから、あきらかに、この言葉に釈迦は関与していない。

私は、釈迦に魅力をかんじている仏教信者でもあった。仏教信者の目で数多くの仏教書を読んでいると、内容はわかっても意味がわからない。これが仏教信者を離れ、釈迦個人の信者としての目でみてみると、様々の仏教書が簡単なことなのだと、わかるようになるから不思議だ。今の例もそうである。釈迦の言葉ではなく、後の仏教教団が、釈迦を祀りあげたいためにつくった言葉だと考えると、なるほどなと、わかってしまうでしょう。

ものすごく膨大な仏教書の中で、釈迦の真実の言葉は、ほんのひとにぎりしかないということをしれば、仏教の本質がわかってくるものなのです。

別に仏教の批判を、私はするつもりはないし、仏教は仏教で認めているのだが、仏教イコール釈迦個人の教えというのは、あきらかに違うのです。皆がつくった『スーパースターの釈迦』の教えというのなら正解といえるが、紀元前四百~五百年頃インドの地に存在した釈迦の教えが、イコール仏教ではないのです。だからゴータマさんという呼称も、私にとっては釈迦に親しみをもててよいのですが、釈迦という呼称も捨て難いものがあります。

宗教人の生き様を知りたい、学びたいという場合、尊称のついた主人公からは多くを学べない。なぜなら、その枠の外に主人公をだしてあげないから、自分達は敬っているつもりでも、逆に、主人公を貶めているという事が結構あるからだ。

釈迦が傲慢に振る舞った場面でも、尊称をつけて本を書く人は、如来に対しては口の利き方にも気をつけなければいけないと教える。まるで規律の厳しいどこかの学校や、独裁者の治めている国の教えのように、私には聞こえる。そういう世界では、大事なことがねじれていくし、物事の本質を見失い、表面的なことばかり大事にするように思える。

 

聖はアーリヤ人という意味

例題としてだした日蓮大聖人にしても、そのように呼ぶ人達は、当然、敬称をつかい日蓮を呼んでいるのだが、もともと聖という意味はアーリヤ人という意味で、その字を分解すると耳と口の王だから、これはあきらかにバラモンをさしているのである(ブラーフマン《梵天》の声を聞きその声を口から喋る王という意味)。バラモンとはインドの身分制度の最上級に位置する階級である。

日蓮は自ら「自分は (せんだ)()の子」だと言っている。

陀羅とは身分制度の中にも入れない、人間ではなく動物と同じだとあつかわれている、一番下の階級につかわれている差別用語である。

日本では士農工商という身分制度が江戸時代にあったが、その下に、 (えた)非人(ひにん)という身分制度に入れない人達がいた。 陀羅もそれと同じなのである。

だから日蓮大聖人という敬称は、日蓮自身を、とてもバカにした呼称なのである。

釈迦のことに関し、人々は殆んど何も知らない。それは一般人だけでなく宗教団体のトップも知らないのだ。勿論全ての宗教団体ではないが‥‥

知らないがゆえに

「釈迦が八正道を説いたのは、私の霊体が釈迦に教えたからだ」

なんて平気で言う教祖もでてくる。釈迦というブランドを使えば、自分の言葉に重きをおけると思っているのだ。(釈迦は八正道を説いていない)

これから釈迦に関し色々なことを書いていきますが、その中には、仏教信者が常識だと思っていた事も、どんどんひっくり返していきます。この本を読み終えたら、今までの仏教常識が、まったく変わると思いますが、釈迦個人に関しては、きっと好きになってくれると思います。


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