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霊的状態の真偽が問題33

2010.01.31 Sunday | by kawa-su
 

古代インドの宗教は人々を救う宗教ではなく、自分を救う、自分のための修行が中心であった。
 釈迦の時代はそれが梵我一如であり、仏教ではブッダ、阿羅漢を目指していたのだ。
 両者とも目指す境地は違うが修行方法は似たようなものだったのではないかと推測できる。

修行の第一はヨーガ、瞑想、禅である。
 呼び名は違うが中身は同じ様なものだと思える。
 この修行は一種の巫女的境地を目指すものであろう。
 巫女的境地になったとき怖いのは魔に襲われることである。

釈迦が菩提樹の下で悟りを開こうと瞑想しているとき、その邪魔をしたのが魔である。
 薬や修行、又は神や霊が乗り移って覚醒した世界に入いると悟りを得たような錯覚をおこす。
 その世界が真の境地の世界なら問題ないが、そのほとんどは邪霊の世界で修行者を惑わそうとする。
 だから釈迦の悟りの時も魔という形で邪霊の世界が表現されるのだ。
 その邪霊の世界を見極めるために無我が必要なのである。
 我が汚れているから魔があらわれたり、邪霊の世界に入ってしまうのであって、無我ならば仏の世界に入いれるのだ。
 これは梵我一如でも同じだと思う。我が梵天の世界に入るためには我を純粋にしなければ入いれない。

日本神道でもさにわという存在がそれと同じようなものだろう。
 神がかりになった巫女の言葉が真の神の言葉か、動物霊等の、神ではない言葉なのか、それを判定するのがさにわなのです。

さにわが「これは動物霊がいわしめた言葉です」と言えば巫女は魔にやられたということだ。

神がかりになったり、霊の世界に入ったからといって、その世界が正しい神の世界(言葉)仏の世界とは限らないのである。

現代の人でも霊能者にみてもらった人は多少その事が分かると思います。

霊を降ろす人(女性が多いので私は霊のおばちゃんと呼んでいる)に見てもらうと結構当たる。
 「実家に橋が架かってるでしょう」「弟さんの嫁さんは来年家を出て離婚します
(二人の仲は破綻していて誰が聞いても離婚するだろうと思える状態)」なんていう事はよく当たるが、持ってる株が暴落した時、「株を売った方がいいか、持ってた方がいいか」なんて質問には逃げるか、外れるし、「難病を治す先生にはどこにいけばあえるか」なんていう質問の答えも外れる。
 自分にとってどうでもよい事は結構当てるのだが肝心な事に関しては、逃げの答えか間違った答えなのだ。

勿論、ずばり当てる霊能者もいるだろう。
 霊能者といってもレベルが色々あるのだと思う。

古代インドの修行者も一種の霊能者を目指し神や仏の世界に入いろうとしたのだと思う。
 しかし、神や仏の世界にはそう簡単に入いれるものではない。
 当たるも八卦当たらぬも八卦のレベルの世界なら現代のレベルの低い霊能者同様、沢山の修行者も入ったかもしれないが、その世界は魔の世界であって神や仏の世界ではないのだ。
 だからその世界に入いれるのは、よっぽど修行した聖仙でなければ不可能なことだと古代インド人は考えていた。

その様なすごい聖仙が神の世界に行って聞いてきた言葉だから、ヴェーダは人の説いた法ではなく神の言葉だと思い、古代インド人はヴェーダを神の言葉だと決め付けていたのである。


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