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十如是35

2010.02.02 Tuesday | by kawa-su
 

仏教徒達はバラモン教に対抗するため梵天(真理の世界)と同じ意味だけれども違う言葉を捜し、それが如ではなかったかと私は推測する。

有名な法華経方便品第二で十如是がでてくる。
 十如是とは、如是相、如是性、如是体、如是力、如是作、如是因、如是縁、如是果、如是報、如是本末究竟等
。という十の如是から始まる法の実体です。

この十如是の書き下しも()くの如きのとなっている。
 是くの如きの相とか性では意味がわからない。
 これが如是の相、如是の性ならなんとなく意味が分かってくる。
 如
(
真理の世界)の相、如の性と続くと真理の世界の姿を説明しているのだと分かってくるでしょう。

つまり『仏の姿()は真理の相(表面にみえる姿)を持ち、真理の性質(内面のこと、精神とか心)を持ち、真理の身体を持っている。
 そして、その身体を持っているからこそ、真理の力を持ち、その力を作用させ、真理の因を創る事が出来、真理の因を創れば、真理の縁が生まれ、その結果、真理の結果となる、その結果こそ真理の報われといえる。
 それらは全て真理の世界においての事で、初まりから終りまでの無現の時間、究極の世界での事です』

というような意味だと、如の解釈によりできる。
 是くの如きの‥‥より、よっぽど意味が分かると思う。
 如是の是は是非の是で、肯定を表し、正しいとか、あっているという意味です。
 だから如是は正しい真理の世界となり、如是我聞は、『修行をし、自分の存在を極限まで純化させ、無我の境地になり、正しい真理の世界に入いり仏の話を聞いてきた』となるのです。

これならば釈迦が入滅しても、修行して我を極限にまで純粋にし、無我になり如の世界にいけば、仏(釈迦)の話()を聞く事が出来る。
 そして聞いてきた話
()を如是我聞として、経にすれば良いのである。

何百年もかけて作られる経もあるし、経の作者は常に仏ということも、こういう事なら納得しやすいだろう。

古代インドの修行者達は、霊的能力を身に付け神の声を聞く事を目的としていたのである。
 そしてその神が梵天の世界となり、仏教者達にとっては仏の世界となっていったのである。

つまり、ヴェーダは神がかりになった神仙が聞いた神の声で、仏典は、無我の境地になった仏弟子が仏の世界で聞いた仏の法ということです。

仏教では、目指す境地が仏の世界から仏の覚り(悟り)となり、成仏となっていく。
 大乗仏教に入いると信仰宗教も生まれてきたので、救済や浄土(天国)思想もでてくる。

しかし釈迦の時代、修行者達が目指してたのは、霊的能力であり、梵我一如であった。
 そして当然、釈迦もそれを目指していたのであるし、初期の仏教徒達も同じであった。

仏教がバラモン教に対抗して、無我、仏界を作るが、中身は同じであったのだ。

ウパニシャッドの梵我一如の思想はそれ故、新しい宗教、哲学の幕開けだったといえる。


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