<< 『転生したらゴッホの弟だった』を出版します | main | 創った世界を味わう人がいて成立する >>

スポンサーサイト

2017.03.06 Monday | by スポンサードリンク

一定期間更新がないため広告を表示しています


法華経

2014.10.09 Thursday | by kawa-su
これからの論は発表するかとても迷っている内容なのですが、とりあえず少しだけ発表してそれを削除するか引き継ぐか後に考えます。

仏教には顕教、密教とあるが、私のこれまでの論も誰もが分かるように書いてあるから顕教と言える。密教は分かる人にしか分からない教えであるが、私の密教は分かる人が一人でもいるのだろうかと言う論である。
法華経方便品で釈迦が「唯仏与仏」と言い、この教えは仏と仏にしか分からないと言う。
私の密教もそれと同じである。
ただ、仏教では仏の存在を最高の境地、偉大な存在と位置づけるが、私自身は、仏は偉大とか特別だとは考えていない。
仏を漢字で書くと佛とも書く。
この漢字を分解すると『人で弗ず』となる。人ではないと言う意味である。
佛だから当然、人ではないだろうと解釈もできるが、その解釈よりも人とは何かを理解する方がより佛の解釈につながる。
人や佛を論じるときに十界が便利だ。
十界とは地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界の10の世界のことで中国で生まれた論理である。
中国で生まれた論理と言うか仏教なので、釈迦の教えとは一線を引くしかない考え方であるが、この十界を含む一念三千論が現在日本の法華経の根本であるので無視はできない。
この十界は後にちゃんとした説明をする予定である、が、やめる可能性もある。
ただ、ここでは簡単に人の説明をすることとする。
十界の地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界は六道と言い、悪しき輪廻の世界だと言う。しかし、どういうわけか、六道の人界だけは悪い意味とは捉えない解釈が多い。
人間らしさの追求とか人間とは何かなどの説明をし、真の人間の本性は良いものとする解釈が多い。
六道と言う悪しき輪廻の世界にもかかわらず、人界だけは良いものとするのは論理的におかしいだろう。
実は人界も悪しき六道の世界故、決して良い世界ではないのだ。
人界とはどういう世界なのか? 実はいろいろな世界があるのが人界なのだが、代表的な人界は洗脳された者たちの世界だろう。
洗脳と言うと北朝鮮やカルト宗教を含む宗教全般を思い浮かべるが、これらは分かりやすい洗脳と言うだけで、この世界の常識とか、倫理観なども洗脳の一種である。
テレビで言っている論理をそのまま言う人なんかも洗脳された者と言える。ネット情報をそのまま自分の意見として言う人も同じ。
それでは、誰にも影響されていない自分の考え方や意見を持っている者が、洗脳されていない者に思えるが、それでもそういう者も違う洗脳を受けている可能性もある。
全く洗脳されていない自由な考え方を持つ者はなかなかいないのである。
そしてもう一つ、代表的な人界は、縛られた人生の世界だ。
人は会社や仕事に、ほとんどの人が縛られている。
第一章(顕教)でも書いたが、古代インドのカースト制度のシュードラ(奴隷)状態の人が多い。
古代インドのシュードラとは対価をもらって働く人である。今でいうサラリーマンだ。
古代インドのバイシャ(平民)は、自分では働かないで、人を使ったり、土地を貸したりする人である。
現代の株主とか会社社長、地主がこれにあたる。
人に使われている者は金に縛られているが、かといって人を使う者も金や仕事に縛られている者が多い。
それ故、古代インドでは、それらを逃れるために出家と言う存在があった。
出家すればそれらの縛りから逃れられると王子であった釈迦も出家をしたが、それだけで仏陀になれるわけではない。
誰にも洗脳されていない無我の境地を得られなければ仏陀にはなれないのだ。
佛のもう一つの漢字、仏を分解すると、人とムである。
これはカルト的な言い方をすればムーの人とも読めるし、無(ム)を悟った人とも読める。
つまり無我とは、なにものの洗脳を受けない者ともいえる。洗脳が少しでも入った瞬間、有我となるのだ。
ただ、この世界では無我の状態では生きていけない者がほとんどである。何かしらの洗脳が入るからこそ安定した社会生活を送れるのであるし、安心もできるのである。つまり、洗脳は自分を落ち着ける手段でもあるのだ。
精神的に弱い人が宗教団体に入ると“生き生き”できるのも洗脳のおかげなのである。依存とか信心は、精神を安定させる力があるし強くもできるのである。
しかし、仏とはそれらから離れた存在になれる者で、自由自在を得られる者でもあるのだ。
自在はお金さえあれば得られる感じもしますが、その世界は転輪聖王の世界であって仏の世界ではない。
ソフトバンクの孫正義などは、仏の世界ではないが転輪聖王の世界かもしれないと言う感じである。
仏の本行は菩薩道だと法華経では言う。道と言っているところが中国での翻訳っぽいが、一応そういうことにしておく。
菩薩道とは正しい教えを布教する道とか、慈悲の心を持って人を助ける行為などを言うが、それは顕教の教えであって、密では違う。これは後に説明するかもしれない。
菩薩道とは別に菩薩の存在として観音菩薩の在り方を述べる。
菩薩である観音菩薩は娑婆世界で遊ぶと言う。
もし、観音菩薩が本当に娑婆世界で遊ぶとしたら、娑婆世界の法則に従って生きると思う。それが本当の遊ぶことだと思うから。
もし娑婆世界で特別な力を持って生きていたら、それは遊ぶ世界からはほど遠いものとなってしまうから。
それ故、この世界(娑婆世界)に、もし、仏とか宇宙人が降りてきて、この世界で遊ぶとしたら特別な力は持たずこの世界のきまりの中で生きていくはずだ。
つまり特別な力とは、超能力とか、この世界のすべてを見渡す、などの力のことだ。
娑婆世界の人間を救いに来たとか、地球を救いに来たなどと言う存在の人がいたとしても、この世界のきまりに従うはずである。そうでなければ、救うと言う行為が、強者が弱者にめぐんであげるということと変わらないからだ。
だから、この世界で特別な存在の人がいたとしても、この世界のきまりは平等に降りかかるため、病気もするし、老いもするし、死も逃れないのである。
違う言い方をすれば、仏も菩薩も苦老病死を脱却するには、苦老病死を味わうと言う境地に達するしかないのである。それがこの世界のきまりだから。
 

スポンサーサイト

2017.03.06 Monday | by スポンサードリンク

Comment
Add Comment









Trackback URL
Trackback