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次兄のこと

2017.03.05 Sunday | by kawa-su

私の次兄のことを少し書こうと思う。

次兄は、ある特殊な世界では有名であるし、その世界では神のようにふるまっている。だから信者は盲目的に次兄を賛美するし、そこから脱退した人は次兄を非難する。

創価学会や、最近話題の幸福の科学でも規模は違うが同じような現象を作っている。

ただし、宗教と言うレベルで考えた場合は、次兄の方が池田大作とか大川隆法より段違いに上である。

しかし、力で言うのなら、現状世界で見れば明らかに段違いに池田大作、大川隆法の方が次兄より上である。

次兄は、自ら神、創造神としてふるまっているが、これは十界の天の世界で言えば間違いではない。ただし、この世界(地球)の創造神と言うのではなく、次兄の世界の神とか創造神と言うことでもある。

この世界は天が最高峰の世界である。だからこの世に生まれてきた人は天の世界をみんなが目指す。しかし、力や能力の少ない者は、天を創りだせないので、誰かが創った天の下に入る。

例えばソフトバンクは孫正義が創った会社だが、ソフトバンクと言う天では孫正義が神で社員は天の下で生きる者たちと言える。

それと同じで、この世界にはたくさんの世界が創られ、その世界だけ神もいると言うことでもあるし、その世界では神は絶対者でもあるのだ。

だから次兄が創った世界では、次兄は神であるし絶対者でもあるのは間違いではないのだ。

ただ、この世界の創造神かと言うと、それはあり得ない。

そもそも、創造神はこの世界では楽しむことができないのだ。

創造神は、自分が創った世界なのだから、すべて自分の思うようにできてしまう。

8億円のロト7を当てることもできるし、スポーツのスーパースターにもなれるし、世界一の長者にだってなれる。しかし、それが楽しいことや幸せなのだろうか? 常識で考えれば、そんな世界はつまんないはずだ。

その理屈は、現在のゲームで考えればもっとよくわかると思う。ゲームの制作者は、そのゲームのすべてを把握しているのだから、そのゲームをいくらしても、まったく面白くない。そのゲームで楽しめる者は製作者側ではなくプレーヤーなのだ。

そして、このゲーム制作者が創造神と言うことだ。

つまり、この世界(地球)で楽しんだり、学んだりするのは製作者側ではなくお客側(プレーヤー)と言うことである。

だから、この世界の創造神は、この世界に降り立つなんて言うことはない。この世界の調整に来たと言うのなら、そんなレベルの低い創造神はいないだろう。この世界を創った創造神なら、ちょっとプログラムをいじれば、いくらでもこの世界を変えることができる。

しかし、仏教でいう仏の存在は違う。仏は、この世界の絶対者でもないし、この世界の最上位に立つ者でもない。この世界を楽しむために来た存在なのだ。ある意味、旅行者と同じであるしゲームで言うプレーヤーなのだ。

日本人がヨーロッパに旅行に行ったとき、その日本人はヨーロッパ旅行を楽しむために行く、それと同じようなものである。だから仏とはこの世界(地球)に存在する人とは違う存在だが、それは日本人がヨーロッパに旅行に行ったとき、ヨーロッパ人と日本人は違うと言うようなものである。

だから仏は佛(人にあらず)でもあるのだ。

人とは、この世界の住民のことである。

次兄のことを書こうと思ったが少し話がそれてしまった。しかし、次兄の立ち位置を書いておかなければこの後の説明も難しくなってしまう。

次兄は、運動家でもあった。

特に、空き缶運動はある程度有名だ。

私はこの運動に関しては、次兄は天才だと思っている。

今から40年以上も前に空き缶はリサイクルをしなければならないなんて、誰が提唱できるだろうか。そしてその時、次兄は24歳なのである。

リサイクルと言う言葉は色々なところで使われただろうから、リサイクルと言うことを提唱したと言うのは、実はそれほどのことではない。

次兄の天才的なところは、空き缶が捨てられている状況の解決策を示したことである。

空き缶が捨てられているから、みんなに捨てるのはやめましょうと言う運動家はいる。富士山の空き缶拾いをして訴える者は昔からいた。

しかし、そんな運動は本人たちの自己満足が90%以上占めているし、本気で問題解決をしようとは考えていない。

次兄は、解決策として、企業、行政、消費者、三者が協力しなくてはならないと、空き缶に関しては初めて提唱をした。

そのころ、空き缶が捨てられているのは消費者のモラルのせいだと言われていたし、捨ててある空き缶を何とかしないのは行政が悪いと思っていた。誰もが企業責任なんて考えてもいなかった。

企業は売ったら、売りっぱなしで、後のことを考えないでいいのか。

今では、こんな当たり前の理屈が40年以上前では理屈にもならなかったのだ。

また、空き缶を公害だと訴えたのも次兄が初めてであった。

それまでは、水俣病の様な排水汚染、大気汚染が公害だと思われていたのだ。

次兄がマスコミに「空き缶公害と言ったのが通ったよ。さすがに言いすぎだと思ったけど通用した」と言ったのを今でもよく覚えている。

これ以後、何でも公害と言われるようになった。

次兄は、常に本質を見抜こうとしていた。

普通の人は本質より形を重要視するが次兄は違った。

だから、次兄が運動家として一生を送ったら、これは凄い運動家になったはずである。賛同者がほとんどいなくても凄い運動家ではあったはずだ。

実際、本質的な運動には大衆はついてこない、形がしっかりしたものにしかついてこないのだ。その形も本質はどうでもよく、体裁とか力についていく。

実際、次兄の空き缶運動に参加したのは私と弟、そして宗教がらみで一人、世に名を売りたいからと言う者が一人しかいなかった。後は次兄が本を出し、その本に感銘を受けた読者が後に運動をしただけである。

つまり、本により、次兄もある程度力がついたので、その力によって参加したのであって、運動に賛同して参加したわけではないのである。

だから、ある意味、次兄が運動家だけになったとしたら、賛同者はほとんどいなくて、運動も認めてもらえなかったかもしれない。でも、そんな結果になったとしても、運動家としてはとてもレベルが高くなったはずなのである。

次兄が最近何をしているのかはよく知らない。

私がいた頃に浮世絵、ゴッホなどを研究し、広めようとはしていた。私もその影響をものすごく受け、今でもゴッホと印象派の研究はしている。

そして、今日、偶然に次兄が研究発表した、ゴッホや印象派、浮世絵の論文を読んだ。

もし、次兄が赤の他人だったら、私はこの論文を書いた作者に会いたいと思っただろう。

次兄の論文は明らかに学者の論文とは違うし、一般の研究者とも違う。

どちらかと言うと私の研究論文に似ている。それは、形より、本質を見ようとしているからかもしれない。

次兄の論文は思い込みや決めつけが多い。

だから、そんな書き方を嫌がる人も多いと思う。そして、次兄の信者は書いているのが難しいために理解ができないかもしれない。だから、次兄の信者でない限り誰も読まない類のものでもある。

私が読んだ論文はクレポンのこととゴッホの時代のフランが現代ではどのくらいの価値だったかと言うことと、印象派の名前の語源のことである。

ゴッホの時代のフランの現在価値と言うのは、ゴッホ時代を研究すれば絶対に知りたいことでもある。それなのに、それに触れるゴッホや印象派研究者はいないのである。

ゴッホや印象派のことを勉強したいと考えたらそこは一番重要なことなのに誰もそれに触れない。

私は当然研究した。結論的には次兄と私とでは少し違いが出ていた。

次兄は、いろいろな例を挙げ1フラン500円くらいと結論づけていたが、私はそれよりもう少し高くしている。

この問題は何を基準とするかによって結論は違ってくる。だから正確な答えなんてない。

一般労働者の基準で考えたり、外食で考えたり、宿泊賃金で考えたりで結論は違ってくる。

現在だって円とドルとユーロの適切な価値の違いなんてはっきりしていない。

よく言われるのが、マクドナルドのハンバーグの値段である。それで比べるのが一番わかりやすいと言われるが、それだって絶対ではない。

次兄はいろいろ調べ、対比させて1フラン500円と結論付けた。

ただ、浮世絵を考えたときに500円は安い。

なぜフランの価値が重要であるのか?

それは、ゴッホ、印象派の画家のほとんどが生活に苦しむ中、絵を描いていたからだ。

定説として印象派1880年代には世に認められたことになっていて、多くの研究者がそれに異議を挟まない。

確かに、画商のポール・デュラン=リュエルが印象派に目をつけ、印象派の絵を買いあさっていた時はモネを始め、印象派の画家は多少潤った。

しかし、印象派の絵はまだまだ世間に認められず、ポール・デュラン=リュエルの資金も無くなってきて、何とかしようとアメリカに渡り、そこで成功してから印象派の絵も認められるようになったのである。

だから、印象派の絵が世間に認められ始めたのは1880年代ではなく1890年代なのだ。

次兄も書いているがモネの絵が1880年代いくらだったのか知れば、モネの認知度も分かるのだ。

もしモネの絵が今の価値で言えば数千万円で取引されたのであれば、これは間違いなく認められていたと言える。

しかし、モネの絵は数百たまに数千フランが相場であった。

この数百〜千フランが現在の円でどのくらいだったのかわからなければ、認められていたのかまだだったのか見当もつかないのである。

当時のヨーロッパで、認められる金額は数千万で、悪くても数百万でなければ認められたとは言えない。

数千万円の価値を持つ絵を描ける画家はアカデミーの大家の画家で、数百万円くらいのアカデミー画家はそれなりにいた。

ゴッホの師匠でハーグ派の重鎮モーグは数百万円の絵が描ける画家であったから認められていたと言えるが、今ではゴッホの師匠でなければ誰も知らない画家であるし、それくらいの知名度でも知名度のある絵を描いていたのだ。

印象派ではモネの絵が価格では他の印象派画家のワンランク上であったので他の印象派の画家はどう考えても1880年代は認められていたとは言えないだろう。

しかし、数百〜千フランでも定期的に売れるのであれば認められていると言えるのだが、それが売れないからモネはゴッホの弟テオを頼ったのである。

この辺の事情も、フランの価値が分からなければピンとこない話なのである。だから、印象派やゴッホ研究家は初めにそれを調べるはずなのだが、そういうのを日本の研究書籍では見たことがない。

それにゴッホはテオから支援を受けていたが、それもフランの価値が分からなければおこずかい程度だったのか、暮らせるだけのお金だったのか分からない。

ただ、食事代とか宿泊代でフランの価値を決めるのは難しい。

今でもそうだが、ヨーロッパでは外食はもの凄く高い。だから貧乏人は外食なんてほとんどしない。スーパーで食材を買うと安いから貧乏人は自炊だ。

でもゴッホは自炊なんてしなかった。

売春婦のシーンと暮らした時は、おそらく自炊をしたのだろう。だからテオの仕送りでもシーンの家族を養えたのだと思う。

だから、ゴッホが貧乏人だと言う解釈は少し違う。一般人からすれば貧乏人ではなかったが、自炊で時間を取られるより絵を描きたいために外食をした。でも、アルルでは売春婦も買っていた。

だから、ゴッホは弟のテオにかなり甘えていたことになる。

現在の常識で考えれば、こんな兄を誰が支援できようか。

支援しても、最低限自炊して売春婦は買うなと言いたくなるはずだ。

だから、ゴッホを語る時に弟のテオの偉大さも語らなければ片手落ちになってしまう。しかし、それもフランの価値がはっきりしなければあやふやな問題になってしまうのだ。

クレポンに関しては次兄の論文では決めつけもあったが、これは問題ない。なぜなら独断、決めつけから研究は始まるのだ。

そして研究が進むにつれ、独断や決めつけが間違ったと知ったら、その時、訂正すればいいのである。

これを勘違いしている人が多い。

決めつけや独断は間違っていると。

確かに間違っている場合が多いが、世の中の定説だって正解とは限らないのである。

最近、聖徳太子は存在しなかったなんて言われているが、事実は藪の中で、多くの賛同者が得られると、いつの間にかそれが定説になるだけである。

釈迦にしたって、アソカ王が釈迦と書いてある石碑を見つけたから現実に存在していた人物とされているが、その石碑が間違っていたかもしれないので、実際は存在していたかなんて誰も分からないのである。誰もは語弊があるかもだが大きくは間違っていない。

つまり、正しいなんて言う言葉は、その時の勝利者が言う言葉であって、事実かどうかなんてはっきりしないのである。勝てば官軍はどこでも通用する。

だから、全てを疑ってかかる場合は独断と決めつけは初めの一歩となる。

次兄が研究したクレポンは間違っている可能性が高いのもあるが、価値があるかもしれないのである。

印象派の語源も書いていたが、これは結構参考になった。

モネの印象・日の出は確かに浮世絵ポイからインスプレッションと日の出の前に付けたのかもしれない。ただし、後の名称の印象派展でモネの日の出を見て「確かにこれはインスプレッションだ」と言われたのは、浮世絵的と言うよりラフ画だと言うニュアンスだったと思う。

モネ達ゲルボア派はインスプレッションのことに関してかなり関心を持っていた。

それは、浮世絵と言うのもあるが、ささっと描くスケッチと言う意味もあったのだ。

この時代、戸外で描くと言う画家が現れたが、多くは戸外で簡単なスケッチを描き、そのスケッチをもとに室内で絵を描いたのだ。当然、戸外で描くスケッチは短い時間で印象に残る景色をささっと描いた。

この時代、絵は何か月とか何年もかけて描くものだった。

それがモネの日の出は数時間、下手をすれば1時間以内で描いたように見えたのだから、これはインスプレッションだと言われたのだろう。

アカデミー絵画全盛の時代、そんな絵を見たら、良識のある者は怒るのが当たり前である。絵画を冒とくされたように感じるからだ。

日本の絵は印象派だけではなくアカデミーの画家も認めている者が多かったから、浮世絵的だと言うのは憚れただろうし、だいたい、浮世絵自体が、一般的にはそんなに浸透していなかった。浮世絵も熱狂的な時代に入るのは1890年代からである。

しかし、モネはインスプレッションを浮世絵として題名をつけた可能性が高いので次兄の説は正しい可能性が高い。そして、その方が印象派の説明もしやすくはなる。

印象派と言う名前は、ドガは嫌っていたし、モネもルノワールも、後には自分の絵に印象派と言う名前を付けられるのを嫌がっていた。唯一、ゴッホは自ら印象派を名乗っていたので浮世絵に傾倒していたと言うのが分かる。しかし、モネにしても、自分の絵は浮世絵を乗り越えたと考えたから印象派の名前を嫌がっていただけで、浮世絵を200枚以上収集して、ジヴェルニーの自宅の壁に飾って楽しんでいたのだから、浮世絵自体は否定していなかったし宝物としていた(ただ、ゴッホの収集していたのと違い、モネが収集していた浮世絵は、写楽、歌麿、北斎など現在高額な浮世絵が多かったのだが、壁に飾っていたために色が落ちてしまい価値がかなり下がってしまった)。

モネとゴッホの浮世絵収集の中身が違うのは一つのミステリーなのだが、推理すればある程度は分かる。ヒントは浮世絵が爆発的人気になったのは1890年代からだが、値上がり始めたのはゴッホのアルル時代から始まった。

私が次兄のことを別れてから初めて書くのは、次兄の世界を離れたので、次兄の世界での考え方を私はできないが、それでも、この世界の何かを次兄は知っていると思うからだ。

次兄のところを脱退して次兄を非難するのは簡単である。

また、非難することにより、次兄より自分の方が上だと言いたいのも分かる。

次兄のやることは現代世界の常識からすればおかしなことばかりだから、それを指摘して次兄がおかしいと言うのはあまりにも短絡すぎる。

 

例えば、織田信長を勉強すればいい。

織田信長の時代、その時の時代常識をいくつも信長は破った。しかし、勝って行けば、それが正しいと人は言うのである。勝てば官軍だ。秀吉なんてどれだけ残酷で卑怯なことをしたのか。それでも秀吉の賛同者は多い。政治は勝った方が正義なのである。そして、古代インドの思想では負けた方は修羅にされるのだ。阿修羅王はアーリヤ人が征服した土地の太陽神だったのが負けたために阿修羅にされたのである。

つまり、この世界は良い人間は政治の世界では敗者になる可能性が高く、ずるい人間ほど勝者になる可能性が高いのである。そして勝った方が正義なのだ。

この世界で創られた政治の天の世界は本当の事実なんてどうでもいいのである。

勝って、自分の都合のいい話を事実とし、正義とするのである。

だから、正しいとか間違っているなんて言う論理は政治の世界では無意味でもあるのだ。

次兄は、宗教の世界の形を取っているが政治の世界だ。ある意味、創価学会や、幸福の科学と同じである。と言うより、世界の宗教のほとんどが政治の世界なのだ。

政治の世界は敵を作り、それを悪と言う、そして、自らを正義と言い、戦いを奨励する。

それがどの世界でも同じであったが、不思議と古代インド思想と仏教の始まりは哲学なのである。ただし、時代とともに哲学から政治に代わってしまったが。一応、妙法蓮華経も仏教では珍しい政治宗教である。日蓮は100%政治宗教だ。

だから、その流れをくむ宗教は必然的に政治宗教となってしまうし、その宗教に反対する勢力も政治宗教となる。

最後に洗脳されていると言うのがある。次兄に対して洗脳されたと非難する者も多いだろう。しかし、この世界のほとんどが洗脳の世界なのだ。また、洗脳されているから、自らが安定しているともいえる。もし、洗脳がすべて解けたら自分がふわふわした状態になり、とても不安定さを感じもやもやした気分になるはずである。

だから、ほとんどの人が洗脳されたがっている。ただ、その洗脳された世界が、レベルが高ければ、割かし幸福になれる。レベルが低いと不幸になるのだ。だから洗脳されるのならなるべくレベルが高い方が幸せだ。日本と北朝鮮を比べればよくわかると思う。

そのすべての洗脳が外れた者たちを佛と言い、佛がそれぞれの世界を楽しむ行動が菩薩道で、この世界を相手にしないのが縁覚、佛に付いていき佛と一緒に世界を楽しむのが声聞である。

この辺はかなり説明しないと分からないところだがとりあえず簡単に。

結論的には、この世界は天が最高峰で、佛と言えども、天の境地(世界とは違う)は望んでいる。なぜなら、この世界を楽しむために来たのだから、当然、その最高峰の天の境地は味わいたいのだ。ただ、創造神、いわゆるこの世界の制作者が、そんな単純に佛(プレーヤー)に天の境地を味合わせない。やはり人生を面白くしてやろうと言う製作者の意図があるのだ。

それでも、あまりにも製作者(創造神)の求めているゲームの面白さが大変だと、佛も、もう縁覚でいいやなんて言うことも思ってしまう。その辺の駆け引きがこの世界の面白さでもあるのだ。ただ、これも唯物与仏でなければ分からないことなである。

次兄はかなりこの辺のことも、この世界の仕組みも分かっている感じだ。次兄は創造神ではないが、その近くにいたと言う可能性はある。誰も言わないこの世界の秘密をかなり知っているから(それは、一般受けするカルト的な話ではない。次兄の信者には話さないようなことを私にはいろいろ話したことがある)。

だから、次兄の世界に入ることはもうないが、次兄が最後、何を目指すのかは関心がある。

私は天の境地には関心があるが、天の世界を創るのは関心がない。だから、集団とかは作らないし、そんな元気もない。一人もしくは数人くらいなら一緒に何かをしてもいいが、大人数はエネルギーが持たない。天を創る神に比べれば、力は比べ物にならないほどないのだから。


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2017.11.23 Thursday | by スポンサードリンク

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