これは、ビジネスというよりクレポンの宣伝のためにやっています。
だから落札されなくても問題はありませんし、これを読んでいる人も無理に落札はしないでほしいものです。
出品はプリントと電子版画、そして本物のクレポンもしています。
但し、本物は落札されたくない価格にしていますので、おそらく5年から10年後の価格かもしれません。
クレポンの認知が行われればすぐにその価格かそれ以上にはなりますが。
プリントは絵柄に関係なく全て送料込みで800円で出品しています。
これはクレポンの展示会をしようと思っている人に、名所江戸百景も紹介してほ しいために出品しました。
本物と同じ大きさで、見た目もほとんど同じなので額に入れれば私でも見分けが使きません。
もちろん、虫眼鏡などがあれば何とかわかりますが。
電子版画は高級和紙を使っているのですが、マット紙を使っているプリントの方がオリジナルに近い色を出しています。
だから額に入れるのならプリントがいいのですが手に取った時に和紙の方が良いので、和紙は電子版画として出品しました。
この電子版画は絵柄によって価格が違います。
電子版画でも価値をつけたいために、価格の違いをつけました。
オリジナルのクレポンはなかなか手に入りません。
それでも時々浮世絵を売っている店で販売されます。
ネットで検索すれば浮世絵の店はたくさん出てきます。
この浮世絵ショップのクレポンに対しての価値観は旧と新があり、旧の店はクレポンは後版の玩具だと思っているので、大判浮世絵より値段を安くして販売しています。
絵柄もそれほど重要視していません。
新の店は私の論文を読んでいるのかはわかりませんが最低でも大判浮世絵と同じ価格にしているし、それ以上の価格にしているところの方が多いと思います。
旧の価格で売っているところはクレポンがネットに載って1週間もたたない間に完売してしまいます。
だから、最近は旧のところも新に近づいています。
今、原書房などはそれです。
ちょっと前までは旧の価格で売り出していたのに最近は大判浮世絵より少し高いくらいで出し始めました。
この八犬伝、大判浮世絵なら16万円〜24万円というところでしょう。
それが30万円なのですから、大判浮世絵より高い価格にしています。
ここは1〜2万円でクレポンを売っていたので、クレポンの認識を変えている最中だと思います。
もっと高値につけないのは、クレポンの価値をまだ本気で考えていないからでしょう。
それに比べ、この神田の原書房から歩いて5分くらいのところの大屋書房は新の価格にしています。
ただ、今の時点での新の価格はなかなか売れないでしょうね。
私の論文が世に認知されればこれでも安いとなるから売れるでしょうが。
何しろ、浮世絵の店に連絡を取りチリメン浮世絵が出たら連絡をしてほしい、というメールか電話をしておけば、今ならクレポンが手に入る可能性があります。
それに、旧価格で売っている店ならとても安く手に入れる可能性があるのです。
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そして、クレポンの数は物凄く少ないのです。
5000〜10000枚に1枚しかないと言われています。
そのわけは、クレポンは売れ残りの浮世絵を再び売るためにちりめんにしたからです。
浮世絵商は後版(復刻版)の浮世絵で外人のお土産用に作られた玩具で価値がないと今までは言っていました。
確かに外人向けの玩具としてのちりめん紙の千代紙はありました。
パリではそれをクレープ紙と呼び人気品でした。
ファン・ゴッホ美術館にはクレポンが19枚ありその中に千代紙のクレープ紙もあります。
また粗悪なクレポンも多数あり、良質なクレポンは5枚程度(現物を実際見なければわかりません)で後は粗悪なクレポンか保存状態がひどいクレポンです。
それでもファン・ゴッホはこのクレポンを愛しました。
書簡542
日本の版画の真面目な愛好家、たとえばレヴィ自身に、「この五スーのクレポンが私にはどうもすばらしいと思えてならないんですよ」と言おうものなら、相手はおそらく、いや、きっと少しむくれて、ぼくの無知とぼくの悪趣味を笑うだろう。まったく昔リューベンスやヨルダーンスやヴェロネーズを愛好することが悪趣味であったのと同じことだ。
そして、アルルにてクレポンを油彩画で描こうとしてそれは成功しました。
ファン・ゴッホの有名な絵のほとんどはクレポン技法によって創られたのです。
クレポンそっくりな『種まく人』
クレポン地とクレポンストロークで描かれた『ローヌ川の星月夜』
クレポンストロークで描いた『星月夜」
次兄の読者はこの貴重なクレポンを次兄に言われてかなりの人が手に入れたはずです。
それ故、現在クレポンは市場にほとんど出てきません。
1年に10枚〜20枚くらいだと思います。
そして、ほとんどの浮世絵を売っている店は、相変わらずクレポンを後版の浮世絵だと思っているのです。
それ故、安い値段で売っています。
私は浮世絵の木目から江戸時代に摺られた版と同じだと発見しました。
それに、クレポンを伸ばし大判浮世絵にすることも成功しました。
つまり、最低でも大判浮世絵とクレポンは同価値なのです。
現在ちりめんを作ろうと何人かが努力をし成功しています。
しかし、それは明治の粗悪なクレポンくらいでしかできていません。
緻密な江戸のクレポンまでは成功していないのです。
つまり大判浮世絵よりクレポンの方が価値があるということです。
私の願いはクレポンの価値の復活です。
江戸時代の最高の文化の結晶のクレポンを日本人は見放していました。
しかし、印象派の画家やゴングール、ファン・ゴッホ、ボナール、マチスたちはクレポンを宝物のように大切にしていたのです。
ファン・ゴッホの絵を独自にしたのもクレポンであるし、ファン・ゴッホがパリでクレポン展を開き、それを見たベルナールやアンクタンが新しい技法クロワゾニスムを作り、それを真似したゴーギャンがベルナールと綜合主義を打ち立て、そこからナビ派と繋がり近代絵画につながっていくのです。
つまり元はクレポンから始まってるのです。
それ程貴重なクレポンを学者や研究者は誰も研究をせず見捨てていました。
ファン・ゴッホのアルルからの手紙にはクレポンと言う文字が25回も出てくるのです(オリジナルの手紙、翻訳は誤訳でクレポンの文字が消されている)。
次兄の先見の明によりその貴重なクレポンを持っている読者は展示会をするなり、世に広めてほしいと思っています。
私もそれを努力します。
クレポンを持っていない人は浮世絵の店に「ちりめん浮世絵が出たら教えてほしい」と電話をするかメールを出しておけばクレポンが入れば教えてくれます。
浮世絵の店のウェブを見ればクレポンが売っていた形跡が出てきます。
過去には『名所江戸百景』も出ていたのです。
私が気がついたときにはSOLDでした。
とても残念です。
最近もいっぺんに18点も出ていましたが1週間でSOLDになってしまいました。
やはり貴重ですから出ればすぐ売れてしまうのでしょう。
この時は10000〜15000円と言う格安で出たのです。
原書房はいまだに古い考え方だからクレポンを価値がないと思っているのだと思います。
この原書房は神田にありますがその近くに同じく浮世絵を売っている大屋書房があります。
この大屋書房はクレポンの価値を知っているようなので高値を付けています。
しかし、この大屋書房の価格にしても、将来クレポンの価値が知れ渡ったらまだ安い値段になるのです。
芸術の価値をお金ではかるのは私も抵抗がありますが、この世界の価値観はお金が決めているので、それは従うしかありません。
ファン・ゴッホの絵にしても数万円で買えるのなら誰も大事にはしないでしょう。
浮世絵を売っている店は『浮世絵を売っている店』とネットで検索すればたくさん出てきます。
東洲斎のホームページで目録が手に入ります。
それに9月は『浮世絵大入札会』があるので、それに参加して業者の人を見つけて「ちりめん浮世絵があったら連絡してください」と言えば一気に見つかる可能性が大です。
地道にネット検索してよいでしょう。
https://www.harashobo.com/ukiyoe/
https://www.ohya-shobo.com/catalog_search.php?keyword=%E3%81%A1%E3%82%8A%E3%82%81%E3%82%93
http://jimbou.info/town/ab/ab0025.html
https://www.yamada-shoten.com/onlinestore/search.php?word=%E3%83%81%E3%83%AA%E3%83%A1%E3%83%B3
他にも検索すれば日本全国にあります。
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次兄の論文↓ クリックすると論文に飛びます
ファン・ゴッホはクレポンをとても愛し、アルルではクレポンを油彩画で描こうとして、それは成功したのでした。
もし、クレポンを油彩画で描こうとしなかったのなら、ファン・ゴッホの名作は生まれてこなかったのです。
それほど重要なクレポンなのにファン・ゴッホ研究家は誰一人としてクレポンのことを無視しているのです。
これは言葉の弊害もあるのかもしれません。
欧米人は、クレポンは浮世絵のことと勘違いしたのかもしれません。
実際、英訳ではクレポンのことをJapanese prints(日本版画)としているのです。
確かに日本版画でも間違いではありませんがちりめん浮世絵と、普通の浮世絵では明らかに違います。
色の濃さがクレポンは濃いのです。
そのため田中英道氏は下記のように言っているのです。
田中氏はファン・ゴッホの色彩の変化を浮世絵と言うよりも広重の色だと断言します。
おそらく田中氏はクレポンを知らなかったのでしょう。
クレポンを知っていれば、ファン・ゴッホの色はクレポンの色と断言したはずなのですが、知らないために浮世絵ではなく広重の色という表現を使ったのです。
ファンゴッホが浮世絵をコレクションし影響を受けていたというのはファン・ゴッホ研究家ならだれもが知っていることです。
しかし、彼らは浮世絵のことをあまりにも知らなさ過ぎていたためにクレポンが何のことかわからなかったのでしょう。
浮世絵の専門家の浮世絵商ならクレポンという名を知らなくてもちりめん浮世絵のことならだれもが知っています。
しかし、浮世絵商はちりめん浮世絵の現物は見ていますが、それを明治時代の復刻版をちりめんにしたお土産用のおもちゃだとして浮世絵と一線を引いて馬鹿にしていたのです。
これらの事実を私は研究していった時に知り驚きました。
noteにその論文を載せていますから興味のある人は読んでみてください。
下をクリック
日本でちりめん浮世絵のことを調べている研究家は全くいないし、少しばかり出てくるちりめん浮世絵の説明は間違いだらけなので、これを研究するのは不可能に思えました。
ただ、丁寧にネット検索をしていくとゴンクールやホイッスラー、ラファエル前派のウィリアム・マイケルはクレポンを宝物のようにしていたことが分かったし、ファン・ゴッホの後の世代の画家のマチスやナビ派のピエール・ボナールもクレポンを好んでコレクションしていたことが分かりました。
それにベルナールが創始するクロワゾニスムは、ファンゴッホが開いたクレポン展で影響を受けて創始したことが分かりました。
地道に研究していくと色々なことが分かりましたが、それでも壁がふさぐこともあります。
そんな時に次兄の論文を読んだところ、一気に問題解決になり、それまで研究していたことが完全になりました。
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ファン・ゴッホはクレポンをとても愛し、アルルではクレポンを油彩画で描こうとして、それは成功したのでした。
もし、クレポンを油彩画で描こうとしなかったのなら、ファン・ゴッホの名作は生まれてこなかったのです。
それほど重要なクレポンなのにファン・ゴッホ研究家は誰一人としてクレポンのことを無視しているのです。
これは言葉の弊害もあるのかもしれません。
欧米人は、クレポンは浮世絵のことと勘違いしたのかもしれません。
実際、英訳ではクレポンのことをJapanese prints(日本版画)としているのです。
確かに日本版画でも間違いではありませんがちりめん浮世絵と、普通の浮世絵では明らかに違います。
色の濃さがクレポンは濃いのです。
そのため田中英道氏は下記のように言っているのです。
田中氏はファン・ゴッホの色彩の変化を浮世絵と言うよりも広重の色だと断言します。
おそらく田中氏はクレポンを知らなかったのでしょう。
クレポンを知っていれば、ファン・ゴッホの色はクレポンの色と断言したはずなのですが、知らないために浮世絵ではなく広重の色という表現を使ったのです。
ファンゴッホが浮世絵をコレクションし影響を受けていたというのはファン・ゴッホ研究家ならだれもが知っていることです。
しかし、彼らは浮世絵のことをあまりにも知らなさ過ぎていたためにクレポンが何のことかわからなかったのでしょう。
浮世絵の専門家の浮世絵商ならクレポンという名を知らなくてもちりめん浮世絵のことならだれもが知っています。
しかし、浮世絵商はちりめん浮世絵の現物は見ていますが、それを明治時代の復刻版をちりめんにしたお土産用のおもちゃだとして浮世絵と一線を引いて馬鹿にしていたのです。
これらの事実を私は研究していった時に知り驚きました。
noteにその論文を載せていますから興味のある人は読んでみてください。
下をクリックすると飛びます。
日本でちりめん浮世絵のことを調べている研究家は全くいないし、少しばかり出てくるちりめん浮世絵の説明は間違いだらけなので、これを研究するのは不可能に思えました。
ただ、丁寧にネット検索をしていくとゴンクールやホイッスラー、ラファエル前派のウィリアム・マイケルはクレポンを宝物のようにしていたことが分かったし、ファン・ゴッホの後の世代の画家のマチスやナビ派のピエール・ボナールもクレポンを好んでコレクションしていたことが分かりました。
それにベルナールが創始するクロワゾニスムは、ファンゴッホが開いたクレポン展で影響を受けて創始したことが分かりました。
【エミール・ベルナール自身が1903年に公表するところによれば「我々(ベルナールとアンクタン)は日本のクレポン縮緬絵の研究を通じて単純性へと行きつく。我々はクロワゾニスムを創始する(1886)」(「メルキュール・ド・フランス』誌1903年12 月号)。】
地道に研究していくと色々なことが分かりましたが、それでも壁がふさぐこともあります。
そんな時に次兄の論文を読んだところ、一気に問題解決になり、それまで研究していたことが完全になりました。
次兄はあるとき、フィンセント・ファン・ゴッホが浮世絵を大量に集めていたことを知りました。
今では、ファン・ゴッホが浮世絵をコレクションしていたことは、ファン・ゴッホを知る者にとっては常識ですが、40年位前では、知る人は少なかったのです。
そして、それよりも驚いたことが、ファン・ゴッホが集めていた浮世絵は幕末の浮世絵と明治の浮世絵だったのです。
ファン・ゴッホに次兄が興味を持っのは当然でした。
ファン・ゴッホは浮世絵を500枚以上集めていたと私も聞いた時は驚きました。
ファン・ゴッホコレクション↓
それほどたくさんの浮世絵を買うお金がファン・ゴッホにあったというのも驚きでした。
そして極めつけは、ファンゴッホが浮世絵を模写していたことです。
歌川広重の名所江戸百景の「大はし あたけの夕立」 と「亀戸梅屋舗」 。
渓斎英泉「雲龍打掛の花魁」を掲載した「パリ・イリュストレ」誌1886年5月号 。
そして一番は、タンギー爺さんの肖像画のバックに浮世絵を飾っていることで、それもその浮世絵が幕末の浮世絵だったからです。
特に左真ん中の三浦高尾の浮世絵は、1万円台で私も買ったことのある浮世絵だったのです。
一気にファン・ゴッホを身近に感じました。
次兄はファン・ゴッホコレクションと同じ浮世絵を集め始め、その浮世絵の展示会を開くようになり、それはヨーロッパでの展示会にも発展していきました。
そしてそれは世界三大美術館の一つと言われている、ロシアの『エルミタージュ美術館』でも開くことができたのでした。
次兄の日本文化を伝える浮世絵外交でした。
日本でも全国の学校に浮世絵を寄付する運動もしていました。
パリにあるタンギー爺さんの店も次兄の読者が借り受け、そこで浮世絵販売もしていました。
ただ、私はこの辺の事情はネットによって知るだけでした。
それ故、もっとたくさんの活躍はしていたと思います。
次兄は幕末の浮世絵の中で、特に集めていたのは、ゴッホコレクション、三代豊国の源氏絵、押絵鏡絵、デザイン画でした。
特に押絵鏡絵は1枚10万円まで買い集めていたので、浮世絵商も1枚5万円までは買い取ってくれたのです。
特にゴッホコレクションの押絵鏡は、次兄のグループにとっては宝物のような存在になっていました。
次兄のデザイン画コレクションはとても素晴らしく私では手に入れられないデザイン浮世絵がたくさんありました。
次兄が亡くなったときに、次兄の家を24年ぶりに訪ねたら、次兄の浮世絵コレクションは、北斎の明治の復刻版しかありませんでした。
次兄の妻が関係者から聞いたところ全て売ってしまったということでした。
私自身、次兄の財産には興味もなく財産放棄をしたのですが、次兄の浮世絵コレクションは美術館並みだったのでそれが離散したことは残念でたまりませんでした。
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次兄は67歳で亡くなったのだから若死にでしょう。
若死にではあったが、次兄はこの社会に多くの種をまきました。
その代表的な種まきの行いとして、47年前に起こした空き缶公害の運動があります。
47年前は、道路に捨てられた空き缶はごみでした。
社会運動として富士山のごみを拾おう、という掛け声とともに空き缶も拾っていた活動家たちはいました。
しかしそれは、空き缶拾いを「ごみを捨てないで」という掛け声だけのモラル運動でした。
次兄は空き缶はごみではなく資源だとし、リサイクルすれば再び資源として使える、自然はリサイクルをしているからいつまでも自然を保っていられるが、そこに人類がごみを捨て始めたらいずれ地球はゴミだらけになってしまう、だからリサイクルをしてごみを資源としよう、と訴え、その解決策として、企業と行政と消費者の三者が協力しなければならないと提言をしました。
今では、消費者がごみの分別をするのが当たり前、その分別を行政が資源とするのも当たり前になっています。
しかし47年前は、その訴えは笑われたものでしたし、理解する人も少なかったのです。
社会が成熟をしなければ理解されないことは多々あります。
次兄のすることはそういう行動が多く、社会が理解され始めるころには、次兄がそのような訴えをしていたということを知る人は皆無になっています。
つまり、種まきはしたけど、それが花となり実となるころには、誰も種まきをした人は知らないとなってしまっているのです。
それでも、結果として、ごみを資源としようということを社会が理解できれば種まきも成功と言えるでしょう。
空き缶は資源だと訴えた後に次兄は田舎に住もうと提案します。
ふるさと村運動です。
これも40年ほど前の話です。
当時、都会の土地価格は高く、田舎はそれに比べれば安かったのですが、その田舎の不動産情報を知ることは一般人には難しかったのです。
次兄は、裁判所の競売に目を付けました。
田舎の裁判所には差し押さえた物件を競売にかける告知が出ています。
その裁判所に出かけ競売物件を調べ競売に参加するやり方を次兄は『ふるさと村情報』という雑誌に載せました。
『ふるさと村情報』も次兄が考え、編集長をして出した雑誌です。
40年くらい前の裁判所の競売は業者、いわゆるプロしか参加していませんでした。
落札方法は『競り』です。
部屋の中に落札したい人たちが集まり、執行官の代理の人が事件番号を言い、それを競っていくのです。
しかし、プロばかりが集まるので競りの始まる前にプロが談合をし、それぞれのお目当ての物件を最低価格で落札するようになっていました。
それに、競りに出される物件は、住所と坪数程度しか書いていなく、すべて自分で調べなければなりませんでした。
謄本を取り、問題がないかを調べたり、役場に行き、場所がどこにあるか大きな地図を見ながら探したりするのです。
とても素人の一般人ができることではありませんでした。
裁判所としては安値で落札されても一向に構わないのです。
処理さえできれば良いので、業者が談合しようが目をつぶっていました。
しかし、次兄が裁判所の競売を世間に示したために、多くの素人が裁判所に行くようになり、あまりにも裁判所のやり方がひどいとなり、裁判所も競りを止め入札に変わりました。
競りだと怖いプロに睨まれながら参加しなくてはなりません。
入札なら、そういう怖い思いをしなくても参加できます。
そして、裁判所の競売が知られるようになると、裁判所は物件の説明を詳しく一つの資料として置くようになりました。
これにより、一般人も現地で調べる困難が大幅に減ったのです。
裁判所の競売物件は債権者、債務者の問題が多く、都会のマンションや家では債務者がそのままマンションなどに住み続け、落札した人ともめて殺人事件が起こることもあり、やはり裁判所の物件は安いけど怖いというイメージでした。
しかし、田舎の物件はそのような物件は少なく、家屋にしても別荘地が出ることもあり、別荘地なら債務者は住んでいないし、そのような差し押さえになった場合、長く空き家にしている家も多かったのです。
つまり、落札することにより、空き家が活用され、再び家が生き返るのでした。
農家のような物件は心苦しく参加を薦めていませんでしたが、土地とか別荘地の情報は積極的に雑誌に情報を載せていました。
ふるさと村情報の2号では「土地1075坪とロッジでなんと10万円で手に入ったぞ」の特集をしました。
これは、1075坪の田舎の山を10万円で落札をし、そこに生えていた木を伐採しその木を使いログハウスを建てた、ということです。
38年前のことです。
今では、自分で家を作る人も珍しくはありませんでしたが、ログハウスがどういう建物かも知らない時代にこのような特集を組んだのです。
もちろんこの土地は裁判所の競売で読者が手に入れ、ログハウス造りは編集者が協力して造ったのでした。
次兄のする運動は特徴があります。
価値の変換です。
ごみとしての価値しかなかった空き缶を資源とする価値にした。
都会の不動産にしか価値を見出せない人に対して、田舎の不動産の価値を示した。
40年位前は都会で家庭菜園をするのが大衆の夢でした。
経団連の土光敏夫会長は金持ちなのにめざしを食べ、家庭菜園の野菜を食べる質素倹約の人として有名でした。
しかし、都会の家庭菜園?
1坪、何百万円とする土地に野菜を植えて金持ちは喜んでいたのです。
これって質素倹約なのか?
都会で100坪の土地を持っていたら大金持ちです。
金持ちは境を塀で囲み、庭に木々を植えて自然を演出して喜んでいました。
しかし、そんな光景、田舎に行けば当たり前の光景です。
家の前に木々が茂っているなんて普通の光景なのです。
おまけに田舎は空気が美味しいし、星も奇麗だしと言うことなしなのに、なぜかほとんどの人は都会に住みたがり、都会の家に木々を植えたり野菜を作ったりするのが最終目標でした。
一戸建てではなくマンションならば最上階から見下ろす部屋に憧れていました。
田舎の山の上に家を建てたら、街を見下ろす風景が広がります。
金銭的な価値でいえば都会と田舎の不動産の価値はけた違いに都会が高いのは常識です。
しかし、中身はどうでしょう?
お金の価値ではなく、人間らしく生きることができるのはどちらでしょうか?
次兄は、そのようなことを訴え、無農薬野菜なども積極的に作ることを推奨しました。
今では無農薬農法なんて常識ですが、当時は周りから非難を浴びたものです。
価値の本質を考えるということを次兄は訴えていました。
社会はお金の価値で物事を決めていた時代に、お金の価値ではなく中身を問うていたのです。
次兄がふるさと村の次に目を付けたのが古美術で、特に浮世絵でした。
浮世絵は教科書に載っていて誰もが知る美術品です。
日本の美術で世界に誇れるのは浮世絵だと誰もが思うでしょう。
その浮世絵が1万円前後で買えることを知った次兄は驚き、それを次兄の読者に教えていきました。
次兄は20代のころに本を出版し、その本の読者は熱烈な読者が多かったために、読者対象の研修会などを開き浮世絵のことを教えていきました。
当時も現代も金銭的価値のある浮世絵は1700年代の古浮世絵でした。
幕末の浮世絵は全く相手にされず店の前に山と積まれ1枚1万円前後で売っていたのです。
次兄は社会が価値を見出さない、つまり安いものに手を出しやすい性格かもしれません。
競売の不動産も安いというのが一番の特徴ですし、浮世絵も安いから興味を持ったのかもしれません。
しかし、それらを手に入れると、その中身を研究していきます。
浮世絵を売る店では芝居絵という3枚続きの絵を1枚づつバラバラにして売っていました。
3枚なら3万円前後だから売りづらいため、1枚1万円前後で売っていたのです。
浮世絵商にすればこのような幕末の浮世絵の芝居絵などに価値をみいだしていません。
1枚1万円前後ならお客が買いやすいために、コマセとして売っていたのです。
本命の浮世絵はカギのかかった棚の中にあり、コマセを買い浮世絵に興味を持った金持ちに、真の価値のある浮世絵はこの棚の中にあるんですよ、と言い、古浮世絵を見せるのでした。
しかし、この芝居絵は歌舞伎公演の宣伝のための浮世絵なので、初刷り200枚しか刷っていない浮世絵なのです。
芝居絵は歌舞伎の宣伝の浮世絵ですから、歌舞伎公演が終わってしまえば、発売する意味がないのです。
但し、歌舞伎公演が始まる前(見立)と始まっている最中(中見)の2回発行されます。
浮世絵で初刷りはとても価値のある浮世絵なのです。
初刷り200枚とそれ以後の後刷りの価格の違いは10倍はあります。
そして、初刷りで状態の良い浮世絵は美術館級の浮世絵と言えるのです。
つまり、3枚続きの芝居絵は状態さえよければ美術館級の浮世絵なのです。
しかし、それほど価値がある浮世絵なのに浮世絵商は3枚続きをバラバラにしてコマセとして売ってしまいます。
状態が良い、悪いもそれほど気にしていません。
芝居絵は状態が良くても価値がないとしてしまうのでろくに見ずに一山の中に入れてしまうのです。
浮世絵商は浮世絵の価値を金で測ります。
もちろんビジネスですることですから、それは当然なのですが、それでも日本の文化である浮世絵をただ金の価値で決めてよいのか?
それも、その金の価値を決めたのは欧米の知識人と金持ちで、江戸時代の日本の大衆やヨーロッパの芸術家の価値ではないのです。
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幸せの境地は天である。
宝くじが当たる、良い学校、又は良い会社に入ることができた、給料が上がる、旅行に行く、恋人ができる、結婚ができるなど、幸せだと思われる境地はすべて天の境地なのである。
そして、その天の境地をなるべく維持するために天界を創るものが出てくる。
天界とは一つあるだけではなく無数にあるもので、ただ、大きさが違うだけである。
例えば地球と言う大きな天界の世界があり、その中に日本とかアメリカと言う世界が入っている。又は、トヨタとかソフトバンクの様な会社の天界もあるし、芸能界の様な天界もある。数人しかいない会社でも小さな天界と言える。
つまり、トップが存在する世界は天界だと言えるのだ。
そして、その天界に敵対する存在を修羅と呼ぶ。
修羅とは天に負けた存在なのだが、負けていなくても天界からすると敵対する存在は修羅なのだ。
例えば日本最大の宗教団体、創価学会は天界であるが、創価学会に敵対する宗教団体からすれば創価学会は修羅となるのである。
だから、創価学会に敵対する団体は創価学会を悪魔の様な呼称をつけるのである。
しかし、それは、その敵対団体の中で修羅になっているだけで、それ以外の世界では圧倒的な力を持つ天と言う存在になっている。
時が過ぎ、創価学会が衰退し、他の宗教がこの日本を牛耳ったら日本と言う世界でも創価学会は魔とか修羅の存在になる。
これは、同じ仏教教団の釈迦教団と提婆達多教団の関係でも言える。
釈迦や提婆達多が生きている時代では、両者は同じ仏教教団のライバルであったが、その後、釈迦教団が信者数を増やし今の時代までその勢力が残り、提婆達多教団は消滅すると完全に提婆達多は悪人(魔とか修羅)にされてしまうのだ。
日蓮教団でも同じことが言えて、現代では日蓮関係の教団では禅宗や浄土真宗などは魔とか地獄に落ちる宗教にされている。
つまり、天の世界では天の教義が正義であり、敵対する者は悪なのである。
だから、正しいと自らの宗教をほめたたえる教団はすべて天の世界なのだ。
法華経は正しい教えの白蓮と翻訳されていて、初めは正法華経と題名を訳されていたのだが、鳩摩羅什が妙法蓮華経と正の字を妙に変えた。
何しろ、法華経は正しい宗教、唯一の宗教と広める者は言っているので、完全に仏教ではなく神教(天の教)だと言える。
だいたい、南無阿弥陀仏と南無妙法蓮華経と、唱える行為に何の違いがあるのだろうか?
論理的には、行為は同じである。どちらも唱えれば幸せになれると言っているのだからレベル的にも同じである。
親鸞の教えは哲学的ものであったが、それを蓮如が神教としたために念仏も完全に神教になってしまった。ただ、神教にならなければ多数の信者を獲得するのは難しいので、教団宗教を目指すのなら仕方がない行為でもある。
]]>ただ、仏教だけが天とは別の存在、四聖を創った。
四聖の一つ、声聞は真理を追究する者、佛の下で修行するものとされている。
釈迦の時代では釈迦に付いて、諸国を、乞食業をしていたものを言う。
そして、釈迦に随行する弟子は数人であるから真の声聞の存在は数人であっただろう。後の十大弟子と言う存在は後に創られた存在だ。
つまり、声聞と言う地位に就ける者はほんのわずかしかいないのである。
四聖のもう一つ、縁覚は独覚、もしくは辟支仏とも呼ばれ、仙人のような存在であった。ただ、釈迦の時代には釈迦以外にも悟りを開いた者はそれなりにいて、釈迦教団では釈迦と区別するために縁覚と言う存在を創ったのである。
声聞、縁覚は、大乗仏教では小乗二乗と呼ばれ一乗の菩薩とは同じ四聖でも区別されている。
そしてその大乗仏教の菩薩だが、ほとんどの菩薩の存在は神となっている。
仏教を広めるものを助ける存在なぞはまさしく神の存在ともいえる。
つまり、佛が天となり菩薩が神となってしまっているのだ。
そうなると、大乗仏教では、仏教だけが独自に創った四聖と言う存在は全く意味がなくなってしまっている。
そして、佛が天に変化してしまった時代は大乗仏教が盛んになってからで、法華経はまさしく仏教と言うより、他の世界中の宗教と同じく天と神様をトップとする宗教となっているのだ。
これは、大乗仏教が盛んになった時代は西洋の文化、宗教も流れてきて融合された結果だと言えるし、その時代には、釈迦の時代の哲学的な仏教はすたれてしまったからと言える。
天台大師や日蓮は十界を重要視しているが、実は四聖の意味まで理解していなかった。ただ、天台大師は理解していなかっただけだが、日蓮に至っては、完全に別物としてしまっている。
もともと、日蓮は声聞や縁覚は重要視してはいなくて、菩薩と仏を重要視していたのだが、その菩薩と佛を理解できず、菩薩を神とし、佛を天としまった。そしてその結果が、日蓮が現した曼荼羅(本尊)であるのだ。
現代でもこの四聖を理解する者はいず、特に菩薩と佛を理解する者は皆無なのだ。
現代で佛を自認する者のほとんどは、天の存在であり、その天も古代インドで言う梵天と言う真理の存在ではなく神なのに天と称しているだけなのである。
そうなると佛に付く声聞は神に付く畜生と言う存在になっている。
つまり、自らが声聞だと思っている者のほとんどは、実は畜生と言う存在になっていると言うことである。
これは仏教教団、仏教集団の信者はすべて神に付く畜生だと言えると言うことだ。
本当の菩薩や仏と言う存在は、自由を選ぶために集団や教団をつくることはなく、付いてくるものがいたとしても数人が限度なのである。
だから、集団や教団をつくること自体が天を目指している存在だと言えるのだ。
ただ、この世界は天が創っているものだから、天を目指すことは悪いことではないし、この世界に生まれてきた以上天を目指すのは必然ともいえる。
ただ、どのような天を創るかでその天の価値は大いに違うし、レベルの高い天に付くことができたならば畜生でも割かし楽しい人生を送れるのだ。
]]>十界は声聞、縁覚、菩薩、佛の四聖と地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天の六道に分かれている。
世界の宗教は天を最上位としている。仏教はその天とは別に四聖と言う世界を創った。しかし、今の仏教はそのほとんどが団体宗教なので天を佛として、天を目指す宗教となっている。
この世界は欲でできている。
欲を否定するとこの世界では生存できない。
生きた物を食べると言う行為無くしてこの世界では生きていけないし、食べたいと言う欲求自体が欲そのものである。
この世界には三大欲があり、その三大欲を満たさなければ生きていけないようになっている。その三大欲とは食欲、性欲、睡眠欲である。それ故、この三大欲を断つことが四聖の道だとし、古代インドではこの三大欲を断つ苦行が修行者には課せられていた。
釈迦もこの苦行をしたが、その苦行では悟れないとし、菩提樹の下で大悟を得たとされている。
しかし、そうはいってもこの三大欲を断てば神秘的体験ができることは確かで、仏教修行者はこぞってこの三大欲を断つ修行をしていた。
それが、教団宗教になるとこの苦行は意味をなさなくなり、布施と信心が重要になった。布施と信心が崇める存在は天であるため、教団宗教の信者も教祖も目指すところは天となる。
この世界の最上位は天であるため、その天を否定することはこの世界の否定にもなるために、この世界を肯定するのなら天は否定できないし、天がこの世界で生きる人の目指す存在でもあるのは仕方がないことである。
]]>日蓮はこれを信じて自分の論を展開した。
日蓮の論は三大秘法である。
日蓮の信者はこの三大秘法を信じたのだが、現在の日蓮系ではこの三大秘法の実践をしようと言う信者は少なくなった。
天台大師の説いた一念三千とはおかしな説明もあるが、力はある。だから、おかしなところがあっても、力がそれを上回り、この世界に影響を与えている。
日蓮の三大秘法は全くおかしな論なのだが一念三千よりも力がある。日蓮の念の力が天台より大きいのだ。
正しいから力が強いわけではない。
政治とか経済を考えれば、正しいから力が強いわけではないと言うのはレベルが少しでも高ければわかることである。
政治でも経済でも力が強くて勝つから正しいとされるのだ。
そして、宗教もそのようになってしまっている。勝つから正しいと。
本来の宗教は力ではないのだが、勝たなければ後世に信仰が残らないし教団も大きくならない。教団が大きくなるから信じる者も多くなる。
仏教も勝ち残っていたから大きな教団になったし現代にも引き継がれている。だからと言って、その教えが正しいかどうかは別である。
例えば釈迦教団と提婆達多教団の教えは提婆達多教団の方が、レベルが高かった。しかし、レベルが高いと言うことは、レベルの高い人しかその教えが分からない。だから、当然、信者数を多くは持てない。それに比べ釈迦教団は教えを社会に合わせどんどんレベルを下げたから信者は増える。その結果、釈迦教団が勝ち、提婆達多はこの世の中で一番の悪人にされてしまう。
もちろん、釈迦も提婆達多も亡くなった後のことだが。
これは、戦国時代も明治維新も同じである。勝者が歴史を作るのであって、敗者は悪人にされる。
戦国時代は分かりづらいが、明治維新なら理解できるだろう。
明治維新の立役者と言われる坂本龍馬、高杉晋作、伊藤博文、西郷隆盛等、みんな偉人とされている。なぜなら勝者側だからだ。
敗者の徳川関係者は、ほとんどが時代を理解しない、日本を滅亡に向かわせている者と教えられ、それは今でも続いている。
それは勝者の歴史を現代でも教え込まれているからだ。これも洗脳である。
そして仏教の十界では勝者を天と言い敗者を修羅と言う。
阿修羅王とは、もともと、古代インドの先住民が信仰していた慈悲深い太陽神のことである。
]]>古代の宗教なら単純だ。
神がかりの巫女(神子)が神の言葉を述べることが宗教だった。それに政治が加わり、宗教は政治に利用される。
仏教のもととなった古代インドのリグ・ヴェーダの初めは、インドラ(帝釈天)と言う戦い(政治)の神をたたえる詩がほとんどだった。
政治宗教の次に来る宗教が、信じることが重要な宗教だ。
そして、この信じる(信仰心)の宗教が世界の宗教のほとんどを占めている。
キリスト教やイスラム教、ユダヤ教など欧米の宗教は神を信じると言うことが信者の一番の勤めだ。
だいたい、信者と言う呼び名が信じる者と言うことだから欧米の宗教は信仰心とほぼイコールとなっている。
しかし、信じる対象が間違っていたらその宗教を信じると言うことは最悪になる可能性もある。
通常「信じなさい」と言うのは詐欺師だと決まっている。
それ故、信じなさいと言う宗教も詐欺師と変わらないと考えるのが普通なのだが、ほとんどの人はそうは思わないし、教育が高いと思われる人たちも宗教となると幼児と同じくらいのレベルとなってしまう。
ただ、宗教の場合、騙されてもお金を取られるだけでポジティブになれると言う場合もある。
宗教のほとんどは、表向き、社会に対して善い行いをしなさいと言っているので、社会福祉や恵まれない国や人を助けるなんて言うことを宗教はよくやるし、それを手伝う信者も、社会に貢献しているのだと行動していれば、生き方がポジティブになる。それ故、宗教としては騙されても本人にとっては良いと言う場合もある。
だから一概に信仰宗教は悪だとは決めつけられない。
信仰心ではない宗教と言うと何だろう?
それは戒律と論(他の人の論を信仰すればそれは信じる宗教だが)だ。
仏教ではこの二つに経(教は自分で何が書かれているのか考えれば論となるが、ただ信じるだけなら信仰となる)を加えたのを三蔵と呼ぶ。
有名な三蔵法師がインドより持ち帰ったのがこの三蔵である。
釈迦の教えが経で、それに色々な人が解説をしたのが論、そして弟子(修行者)が守らなければならないのが律だ。
律(戒律)の意味は簡単だ。
人を殺してはいけないとか盗みはいけないみたいなことで、仏教なら肉を食べてはいけないとかセックスをしてはいけないみたいなこともあるだろう。
何しろしてはいけないことが律だ。
この律をちゃんと守るような僧がいないのは誰もが知っているところだ。
経と論は教えのことだが、ほとんどの信者はそれらの中身を知らない。だいたい僧でもお経は読めても中身は知らないと言う者もいるだろう。
ましてや、信者となるとほとんどの者はよくわからないはずだ。
つまり、仏教でいう三蔵は信者にはほとんど関係ないし、僧侶にとっても意味がない感じになっている。
その三蔵よりも信じることが重要だと教えられる。
そしてこれは仏教だけでなく信仰を重要視する宗教はみな同じようなものだ。
]]>仏教の十界で言うと、都会暮らしは地獄から天までの六界(六道)を言い、里づくりは
四聖の中の声聞と縁覚を言う。ここで重要なのは里づくりでなく田舎暮らしだと都会暮らしと同じく六界になる。
もちろん例外はある。
都会暮らしでも田舎暮らしでも四聖の暮らしをしている人もいれば、里づくりをしている人でも、意味が分からなければ地獄の中に入ってしまうのだ。
そしてこれが重要なのだが、里づくりでも、本質が分からない指導者が指揮を執っている場合は、指導者が天の境地にとどまってしまうために、そこに集まる人々は地獄、餓鬼、畜生の境地の中に入ってしまう。
指導者がいず、自分だけで里づくりをしても、里づくりの本質を理解しないと地獄、餓鬼、良くて人の境地に留まってしまうだろう。
ただし、智慧の出る人ならば苦労はしても縁覚の境地にたどり着けるかもしれない。
智慧が出ると言うのは、自ら何かをしようとすれば出るものだ。しかし、この世界の教育(洗脳)が強い人は、常に誰かの教えを請おうとして自分の考えを出そうとしない。それ故、智慧も出ない。誰かのマネをしたり、技術を盗もうとするのは構わない。初めてなにかをするときは、どんな天才でもそのようにするからだ。しかし、そこでとどまると智慧は出ない。
例えば、里づくりの一環として農業をする。その時、ほとんどの人は有機肥料、無農薬野菜を作ろうとするだろう。そして、それが特別なものだと自慢したいはずだ。
しかし、今は昔と違い、田舎で自分が食べる野菜を作っている人は、ほとんどが無農薬で作っている。だから、特別ではなくなってきている。
そして、無農薬の野菜だからすべて良いと考えるのは、これも洗脳されているからである。
自分で考えようとしないで、都会から田舎に来て野菜を作る人はみんな無農薬を目指すから、それが正しい行為だと誰かの考えに賛同しているだけなのである。
無農薬野菜を作るのを目指すのは良い。しかし、それがどういう意味を持つのか自分の考えが出ない人は、時間とともに、地獄、餓鬼の世界に陥ってしまうだろう。
つまり、里づくりと言うのは単に田舎に行けばいいと言う話ではないのだ。
]]>
これは宗教と関係あるのでしょうか?
普通、里づくりと言えば宗教ではなく生き方だ。
単純に言えば都会に住むか田舎に住むかということなので、これだと生き方であるし、経済的なことかもしれない。成功者は都会に住み脱落者は田舎に帰ると言うのはよくある話である。
私が住んでいた沖縄の島ではまさしくその通りで、島から出ていき成功したものは、そのまま帰ってこず都会で暮らし、都会で失敗したものは島に帰ってきた。
だから、島は高齢者と失敗者が大半を占めていた。
もちろん、田舎の自然にあこがれ引っ越して来たものと、生まれ故郷が好きだと言うものもいる。そして、島のリーダーになるものは移住者かUターン者が多い。これはエネルギー(力)が違うからで、新しいところに住もうと言う人は、失敗者とか先住者よりもやる気があると言うことでもある。
田舎の人の構成はほとんどこのパターンだが、酷いのは、高齢者を捨てに来る家族もいた。
もちろんその家族には捨てると言う意識は持っていないだろう。
おじい、おばあが生まれたところで住みたいと言ったから、小さな家(小屋)を造ってあげたと言うだろう、たとえ小さな小屋と言えど、数百万円はかかったと主張すると思う。
それでも、他人には捨てているように見える。
今、田舎に住むと言うことは悲しい現実を見ることであり、都会に住んでいる人からさげすまされることでもあるのだ。
では、視点を変えたらどうだろうか。
里づくりとは、人工的なものに囲まれて生きるのか自然に囲まれて生きるのかと言う定義にしたらすこし違ってくる。
そして、この定義には人工的と自然の説明をしなくてはならない。
一般的な印象では、人工的と言うと悪で、自然は善と言う印象がある。
しかし、そうなのだろうか?
]]>だいたい、コメントが来ることもないし、来ても宣伝とかH系だと思われるコメントだから、無視するしかなかった。
でも、私がゴッホの本を出した時にコメントをもらっていた。今気が付きました。
これはお礼を言うのが遅いけどありがとうございます。
ゴッホは日本を愛し浮世絵を集めたから、次兄も浮世絵収集家、研究家としてゴッホに愛着を持ったのだと思う。
私が浮世絵収集をしたのもゴッホを知ったのも次兄の影響である。
しかし、ゴッホに関しては独自に調べていくうちに、ゴッホだけではどうしても無理が来て、印象派も調べなければいけなくなった。
私自身の結論から言うと、近代絵画や現代絵画はよくわからない。しかし、印象派の絵画を勉強すれば、絵画の見方が分かるようになり、近代、現代の絵画も分かるようになる。
だから、美術館に行って絵画を見るのなら、印象派を勉強しなければほとんど意味がないということになる。
浮世絵にしても、ゴッホだけが浮世絵を愛したわけではなく、この時代、東洋ブーム、特にジャポニズムが芸術家に影響を与えた。
特に印象派の画家に影響を与えたし、印象派に対立するアカデミー絵画でもジャポニズムは受け入れていた。
印象派の中でも、印象派の生みの親と言われるマネは浮世絵によって絵が変わったと言っても過言ではないし、自らの絵の中に浮世絵も入れている。
特にゾラを描いた絵は、浮世絵と西洋絵画とマネが描いた『オランピア』の版画を壁に貼っている。
これは東洋の代表芸術浮世絵と今までの西洋絵画の合作によって自分のオランピアができたと言う暗示になっている。つまり東洋と西洋の合体がマネのオランピアだと言うことだ。
マネは、絵画になぞかけをする画家でもあったので、こういう面白い絵をいくつも描いたし、浮世絵が描かれなくても、明らかに影響を受けたと言う絵を何枚も描いている。
ゴッホと印象派を書いた文にはそういうことを書いたのだが、ここでは仏教のことが中心となったので、書いてはいない。
マネ以外でも印象派の代表、モネはゴッホ以上の浮世絵の収集家で、それも北斎、写楽、歌麿など、現代、高値と言われている浮世絵を数多く収集した。
そして、その浮世絵を晩年過ごしたジベルニーの自宅に飾った。
今でもジベルニーのモネの家に行けば、壁に飾ってあるレプリカの浮世絵を見ることができる。
それ以外にも浮世絵と印象派の画家のエピソードは色々ある。ゴッホだけにとらわれず、この時代を勉強すればかなり面白いと思う。
一応、これからはコメント欄もチェックするようにします。
また、遅くなりましたが『転生したらゴッホの弟だった』を書いた欄にそのコメントを表示しました。
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