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2017.03.06 Monday | by スポンサードリンク

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次兄の本

2016.12.31 Saturday | by kawa-su

私が法華経を説こうと書き始めたときに、アマゾンで参考資料を探していた時に次兄の本が発売されることを知った。

本を買った読者感想によると、救われる道は里づくりをすることらしい。

不思議な因縁と言うより、やはり次兄は何かを知っているのかなと思う。

私が法華経を説こうとしたときに次兄は一念三千論をもとにした本を書くと言うし、私が山に入り、里づくりの様な事をし始めているときに『里づくり』の重要性を本に書いているらしい。もちろん、本を読んでいないので詳しいことは分からないが。

法華経のことや里づくりは、もちろん次兄の影響を私が受けたわけだから、主題が同じでも当然のことなのだが、同じ時期と言うのが不思議な因縁なのだ。

次兄の本の宣伝文を見ると、昔とあまり変わらない感じがする。

主観的であるが、相変わらず力強い感じがする。これだけ力強いと信じる人もそれなりにいるだろうと推測できる。

アマゾンのランキングを見る限りでは2万部は売れそうである。

この本を出すことによって、また次兄の力が増すかもしれない。

一念三千論とは中国の天台大師が説いたものだが、これは十界に十界をかけ、それに十如是と三世間をかけたら三千になり(10×10×10×3=3000)それがこの世界だと言うことなのだが、この中で、純粋に法華経に書かれているのは十如是だけである。

十界のうちの六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天)は仏教成立以前の古代インド思想を起源としたものだし、残りの四聖(声聞、縁覚、菩薩、仏)は天台宗の教義に出てくるものである。

三世間は竜樹の大智度論に出てくる世界である。

日蓮や天台が法華経をもとにした理論(論蔵)、を世に出すが、全て法華経をもとにしたと言うのではなく、いろいろな仏教から抜き出している。

法華経を唯一と言うのなら、法華経のみで論を書けばいいと思うのだが、法華経だけでは説明できないと思ったのだろう。

実は次兄もそのような書き方をしている。

悪く考えれば法華経と言うメジャーな経典を利用しているとなるし、良く言えば、今の衆生に対応するために書くため、衆生の知識(興味)に合わせて書くからと言うことになる。

そして、それは間違ってはいないのだろう。いくら真言だからと言っても誰も興味のないことを書いても誰も読まないのだから。誰も読まないものは力を得ることができず、そのまま埋もれてしまう可能性があるのだ。しかし、その時代に誰も理解する人がいなくても、後代ならば理解する人も出る可能性もあるのだ。ゴッホのように。しかし、法華経だけは後代でも理解する人が出てくる可能性は低い。何しろ、法華経は仏と仏しか理解できないのだから、後代に仏が現れなければ誰も理解できないで終わり、埋もれてしまう可能性が高いのである。

そして、天台も日蓮も法華経が言う仏ではないから逆に自説を法華経解説として後世に残すことができたのだ。


法華経を説く

2016.12.07 Wednesday | by kawa-su

今、法華経を説くことをしています。

いずれ、ここで概要、もしくは初めを載せたいと考えています。

半年以内にはできるかなと考えていますが、今のところはっきりはしません

天台大師の一念三千、日蓮の三大秘法などから始まる予定です。もちろん、日本の最大教団創価学会にも触れないといけないでしょう。

創価学会も戸田がひきいていた時は日蓮の流れに乗る可能性があったが、現在は三大秘法を守る気がなくなり、政治集団になってしまったので、日蓮の法華経からは外れていくでしょう。

では、代わりの教団が現れるのか?

そもそも日蓮の法華経とは何なのか?

一般の人は勘違いをしていますが、法華経とは様々な法華経があります。

 

 


自由自在

2015.01.03 Saturday | by kawa-su
トルコにパックツアーで行った。普段フリー旅行しか行かないのだが、パックツアーの添乗員をしている姪が、トルコはパックツアーの方が良いというのと、ツアー料金があまりに安いため決めた。パックツアーは過去に一度だけある。それは、30年以上前に兄と一緒に中国に出かけたツアーだ。その時代は、自由に中国に行けず、パック旅行以外認められていない為だったから、自分の意志でパックツアーを決めたのは生まれて初めてといえる。
パックツアーは自由がないと敬遠していた。また、フリーでヨーロッパを歩いていると、時々、パックツアーの人々に出会う。そのパックツアーの人々を見ていると、情けないとか、それじゃあつまらないだろうという感情がいつも出ていた。
しかし、何事も決めつけはいけないという信条なので、経験してみなければ批判も出来ないだろうとも考えていた。
今回トルコツアーに行ってみて、何て楽な旅行だったろうというのが、一番の感想である。
成田空港で会ったツアーメンバーを見た時、皆大きな旅行バックを持っているのにまず驚いた。
私たち夫婦は2週間くらいのヨーロッパ旅行でも、飛行機内に持ち込めるバックしか持たない。
それでなければ移動の時やホテルまで行くのにすごく苦労するからだ。
今回ツアー仲間が大きなバックを持ってきた理由はホテルに着いたとき、添乗員の説明で理解した。
ツアー客の手荷物以外の大きなバックは、ほとんどドア・ツゥー・ドアなのだ。
ホテルに着いたら大きなバックはホテルのロビーに運んでくれる。そこから部屋まではツアー客が運ぶのだが、ツアー客が運ぶのはそれだけで、翌日はドアの前に荷物を出しておけばポーターがバスまで運んでくれる。
観光地をバスで点と点で運んでくれる。食事は日本人が食べられる物を出してくれる。
歩く時間は最高で1日1時間くらい。
バスの休憩は2時間おきにあるのでトイレの心配もない。
これはこれで、とても楽な旅で、それなりに楽しいかもしれないと思った。それと同時に、フリーツアー{旅行)とは別物の旅行だとも感じた。そしてほとんどの日本人はフリーツアーよりもパックツアーの方を好むとも分かった。
違う言い方をすると、フリーツアーをする人は変わった人ともいえる。
これは旅行だけの話ではなく、すべての事が、フリーよりもパックの方を日本人は好むともいえる。ここで日本人と限定するのは、他の国の人の嗜好までは分からないからだ。もしかしたら世界中の人がそうかもしれない。
大学や就職も、パックを好むし、何かをするのでもパックを好む。
例えば、芸術が好きだから芸大とか多摩美に行きたいと考える人は多いと思う。そして見事合格したら、芸術に関しての事を、興味のないことまで学校が教えてくれる。つまり勉強の内容までパックになっている。
陶芸をやってみたいと思ったら、陶芸教室か陶芸の先生に直接習おうと考える。
家を造ろうと思ったら、銀行と工務店に相談する。全てパックになっているから自分で選ぶのは数種類から選べばいいだけだ。
それは、パックツアーの食事に似ている。魚が良いか肉が良いかみたいな。
自分で自由に始めようなんて人はまずいない。
自分で始めると分からないことがたくさん出てくる。
それらの答えを知るには、昔は大変だったが、今はネットがあるので、ほとんどの事は分かる。
陶芸にしてみても、どこから土や道具を買えばいいのか、どのように作るのかなどは、たいていネットに出ている。
そして、どうしても分からないときは本を読んだり、専門家に訊いてもいいのだが、ほとんどの人は初めから専門家に習うことが一番良いと思っている。
もちろん技術の上達にはそれが一番だろうが、それだと陶芸の面白さが半減してしまう。
そして、習って作る作品はほとんどが似たような作品となる。
以前、湖で20人くらいの人が絵を描いていたが、すべて同じ人が描いた絵に見えた。
きっと同じ人に習ったのだと思う。
そうは言っても芸術事は基礎が大事で、基礎を習った後に自分らしい絵を描けばいいと考える人は多いと思う。
しかし、基礎が最初なのだろうか?
自由に絵を描いて。基礎が重要だと感じた人が基礎を勉強するのは良いと思う。その人の意志がそこにはあるからだ。
しかし、ほとんどの人は、みんなと同じことを習えば安心するということが一番に出てくる。
みんなに笑われる作品を描かなくてよいから。
これは、印象派の時代でもいえる。
印象派のメンバーは、アカデミーという、パック教えに反抗していた。
初めは嘲笑されたが、段々認められていった。
ゴッホはサロンに出品する事もしなかった。
自己流ゆえ、サロンでは評価されないと諦めていたからかもしれないが。
そしてゴッホは誰からも自分の絵を理解されず、嘲笑されバカにされて絵を描いていた。
ゴッホの絵が技術的に一人前になったと言われているのは、サン・レミ時代からなのだ。
しかし、技術的にひどいと思われているそれ以前の作品も、現在では大きな評価を得ている。
アカデミーではなく、基礎でもなく、技術でもない作品が評価されたのだ。
フリーな人は同世代の人には理解されずらい。
逆に理解されている人は、ほとんどがパックに入っている人(芸術家)だともいえる。
仏教では、仏や如来は自由・自在の神通力を持っていると言われている。
これはパックで生きている人には絶対分からない心境でもある。
しかし、何事も自分でやろうと考える人は、この境地にかなり近づいていると思う。
何かをやろうと思ったら、まず自分でやろうと考える。
どこかに行こうと考えたら、自分の力で行こうと考える。
仏教を信仰している人は最低限でもこれらを考えてほしい。
ちなみに教団や組織の言う事を聞くということもパックである。
つまり、どこかの宗教団体に入って、教祖などの教えを信じるのは完全にパック信仰である。
 

創った世界を味わう人がいて成立する

2014.10.14 Tuesday | by kawa-su
私が若い頃、兄が「自然美あふれる奇跡のような地球が存在するが、その美しい姿も人間がいなければ何の存在価値もない」と言った。
地球の美しさも人間以外は味わうことができないからだ。兄は「だから人間と宇宙の中の奇跡とされている地球の存在は人間と同等なんだ」とも言った。
私が論を書くにあたって、これはいつも考えさせることであった。
私が書く論を理解してくれる人がいるのだろうか?
誰も理解してくれなければ、その論が真理だとしても、前記の価値観に当てはめれば何の価値もないからだ。
どんなにくだらない小説やテレビドラマでも、ベストセラーになったり視聴率が高ければ、それは価値のあるものとされる。それ故、その逆もこの世間では当然ありなのである。
法華経では法華経の内容に関して、仏と仏にしか分からないと説かれている。
仏にしか分からなければ弟子には意味のない教えでもある。
それなのに、釈迦は法華経とは何なのかと弟子たちに説く。
矛盾なのだが私にはその意味が分かる。
この世界がどのような仕組みになっているのか(たとえば神が創ったのか、自然作用で造られたのか)を考えた時、最終的な答えは法華経で言うのなら仏と仏にしか分からないのである。しかし、それ以前の答えなら仏以外でも理解できる。
つまり、法華経で言う仏と仏にしか分からないと言う意味は、法華経の真髄を説くことはできないが、それ以前のことは教えることができるということでもある。
実際、仏教学者は法華経の中に法華経の教えは入っていないと言っている。
釈迦が法華経によって仏になったとか、法華経以前の教えは方便だとか、法華経を流布する功徳とか法華経を流布する菩薩、護る菩薩などは説かれているが、肝心の法華経の中身は説かれていないのだ。
仏と仏にしか分からないのであるから、当然、法華経の中身を説いても意味がなく、それ故、中身は説かずそれ以前の事だけを説いているのである。
これは、ある意味、私がこれから書くことも同じことが言える。
真髄を書くことは意味がないのだが、それ以前の事なら書くことができるということである。
また、私の書き方なのだが、決めつけて書くことになると思う。
これが法華経研究による論文なら、ほとんどの場合、決めつけではなく、だと思うとか、だと考えられると言うような書き方になる。
ただ、法華経や宗教などを論じる場合、研究ではどうしても行き詰ってしまい、宗教的な考え方や書き方にならざるを得なくなるのだ。
冒頭で兄の話を書いたが、兄の話でもう一つ書くと「この世界の人間はほとんど生きていない」と言う言葉がある。比喩で言ったのではない。ほとんどの人間は死人であると言うのだ。
これが何を意味するのか長い間疑問であったが、今は理解している。私も表現は違うが似たように感じているからだ。
また、その意味を説くことも意味がないが、もしかしたら最後の方で書くかもしれない、が、途中で終わるかもしれない。
我思う、ゆえに我あり』はデカルトの有名な言葉であるが、これが分かる人がいたら最後まで書くと思う。
ここからの文章は思いつくままに書くので仏教研究や法華経研究で公にされている中身と違って書いてしまうかもしれない。後で文献と照らし合わせて直す場合もあるかもしれないが、書きたい内容からするとそれらはさほど重要ではないために、違っていても気にしないように。ただ、ウィッキペディアでも出ているような文献に関してはウィッキペディアよりとして載せることとする。ウィッキペディアに出ているということは特別な内容ではなく一般的なことだし常識ということであえて載せます。

 

法華経

2014.10.09 Thursday | by kawa-su
これからの論は発表するかとても迷っている内容なのですが、とりあえず少しだけ発表してそれを削除するか引き継ぐか後に考えます。

仏教には顕教、密教とあるが、私のこれまでの論も誰もが分かるように書いてあるから顕教と言える。密教は分かる人にしか分からない教えであるが、私の密教は分かる人が一人でもいるのだろうかと言う論である。
法華経方便品で釈迦が「唯仏与仏」と言い、この教えは仏と仏にしか分からないと言う。
私の密教もそれと同じである。
ただ、仏教では仏の存在を最高の境地、偉大な存在と位置づけるが、私自身は、仏は偉大とか特別だとは考えていない。
仏を漢字で書くと佛とも書く。
この漢字を分解すると『人で弗ず』となる。人ではないと言う意味である。
佛だから当然、人ではないだろうと解釈もできるが、その解釈よりも人とは何かを理解する方がより佛の解釈につながる。
人や佛を論じるときに十界が便利だ。
十界とは地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界の10の世界のことで中国で生まれた論理である。
中国で生まれた論理と言うか仏教なので、釈迦の教えとは一線を引くしかない考え方であるが、この十界を含む一念三千論が現在日本の法華経の根本であるので無視はできない。
この十界は後にちゃんとした説明をする予定である、が、やめる可能性もある。
ただ、ここでは簡単に人の説明をすることとする。
十界の地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界は六道と言い、悪しき輪廻の世界だと言う。しかし、どういうわけか、六道の人界だけは悪い意味とは捉えない解釈が多い。
人間らしさの追求とか人間とは何かなどの説明をし、真の人間の本性は良いものとする解釈が多い。
六道と言う悪しき輪廻の世界にもかかわらず、人界だけは良いものとするのは論理的におかしいだろう。
実は人界も悪しき六道の世界故、決して良い世界ではないのだ。
人界とはどういう世界なのか? 実はいろいろな世界があるのが人界なのだが、代表的な人界は洗脳された者たちの世界だろう。
洗脳と言うと北朝鮮やカルト宗教を含む宗教全般を思い浮かべるが、これらは分かりやすい洗脳と言うだけで、この世界の常識とか、倫理観なども洗脳の一種である。
テレビで言っている論理をそのまま言う人なんかも洗脳された者と言える。ネット情報をそのまま自分の意見として言う人も同じ。
それでは、誰にも影響されていない自分の考え方や意見を持っている者が、洗脳されていない者に思えるが、それでもそういう者も違う洗脳を受けている可能性もある。
全く洗脳されていない自由な考え方を持つ者はなかなかいないのである。
そしてもう一つ、代表的な人界は、縛られた人生の世界だ。
人は会社や仕事に、ほとんどの人が縛られている。
第一章(顕教)でも書いたが、古代インドのカースト制度のシュードラ(奴隷)状態の人が多い。
古代インドのシュードラとは対価をもらって働く人である。今でいうサラリーマンだ。
古代インドのバイシャ(平民)は、自分では働かないで、人を使ったり、土地を貸したりする人である。
現代の株主とか会社社長、地主がこれにあたる。
人に使われている者は金に縛られているが、かといって人を使う者も金や仕事に縛られている者が多い。
それ故、古代インドでは、それらを逃れるために出家と言う存在があった。
出家すればそれらの縛りから逃れられると王子であった釈迦も出家をしたが、それだけで仏陀になれるわけではない。
誰にも洗脳されていない無我の境地を得られなければ仏陀にはなれないのだ。
佛のもう一つの漢字、仏を分解すると、人とムである。
これはカルト的な言い方をすればムーの人とも読めるし、無(ム)を悟った人とも読める。
つまり無我とは、なにものの洗脳を受けない者ともいえる。洗脳が少しでも入った瞬間、有我となるのだ。
ただ、この世界では無我の状態では生きていけない者がほとんどである。何かしらの洗脳が入るからこそ安定した社会生活を送れるのであるし、安心もできるのである。つまり、洗脳は自分を落ち着ける手段でもあるのだ。
精神的に弱い人が宗教団体に入ると“生き生き”できるのも洗脳のおかげなのである。依存とか信心は、精神を安定させる力があるし強くもできるのである。
しかし、仏とはそれらから離れた存在になれる者で、自由自在を得られる者でもあるのだ。
自在はお金さえあれば得られる感じもしますが、その世界は転輪聖王の世界であって仏の世界ではない。
ソフトバンクの孫正義などは、仏の世界ではないが転輪聖王の世界かもしれないと言う感じである。
仏の本行は菩薩道だと法華経では言う。道と言っているところが中国での翻訳っぽいが、一応そういうことにしておく。
菩薩道とは正しい教えを布教する道とか、慈悲の心を持って人を助ける行為などを言うが、それは顕教の教えであって、密では違う。これは後に説明するかもしれない。
菩薩道とは別に菩薩の存在として観音菩薩の在り方を述べる。
菩薩である観音菩薩は娑婆世界で遊ぶと言う。
もし、観音菩薩が本当に娑婆世界で遊ぶとしたら、娑婆世界の法則に従って生きると思う。それが本当の遊ぶことだと思うから。
もし娑婆世界で特別な力を持って生きていたら、それは遊ぶ世界からはほど遠いものとなってしまうから。
それ故、この世界(娑婆世界)に、もし、仏とか宇宙人が降りてきて、この世界で遊ぶとしたら特別な力は持たずこの世界のきまりの中で生きていくはずだ。
つまり特別な力とは、超能力とか、この世界のすべてを見渡す、などの力のことだ。
娑婆世界の人間を救いに来たとか、地球を救いに来たなどと言う存在の人がいたとしても、この世界のきまりに従うはずである。そうでなければ、救うと言う行為が、強者が弱者にめぐんであげるということと変わらないからだ。
だから、この世界で特別な存在の人がいたとしても、この世界のきまりは平等に降りかかるため、病気もするし、老いもするし、死も逃れないのである。
違う言い方をすれば、仏も菩薩も苦老病死を脱却するには、苦老病死を味わうと言う境地に達するしかないのである。それがこの世界のきまりだから。
 

『転生したらゴッホの弟だった』を出版します

2014.03.12 Wednesday | by kawa-su
久しぶりに本を出版します。
アマゾンで予約しています。
http://www.amazon.co.jp/%E8%BB%A2%E7%94%9F%E3%81%97%E3%81%9F%E3%82%89%E3%82%B4%E3%83%83%E3%83%9B%E3%81%AE%E5%BC%9F%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F-%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E5%AE%8F/dp/4906878296/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1394286332&sr=8-1&keywords=%E8%BB%A2%E7%94%9F%E3%81%97%E3%81%9F%E3%82%89%E3%82%B4%E3%83%83%E3%83%9B%E3%81%AE%E5%BC%9F%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F
題名は『転生したらゴッホの弟だった」
題名からわかるとおりライトノベルです。
軽い感じで読めて、かなりゴッホや印象派のことがわかる小説です。
売れ筋の題材ではないので、売れ数にはあまり期待できないのですが、読んで損はないと思います。
実は、この後も本を出版します。
『印象派の旅』という題のフランスの印象派の画家が描いた地を紹介するガイド本です。
今、それを制作中です。

宗教・政治・教育の三権分立

2011.01.10 Monday | by kawa-su
 宗教は私の人生のテーマの一つです。

昔ながらの宗教を信仰している人、新興宗教を信仰している人、特定の神様を選ばないで宇宙そのものを信仰している人など様々ですが、信仰の思いの大小はともかくとして、宗教を否定している人はほとんどいないと思います。

何しろ占いとか、初詣とかしますからね。

私も特定宗教団体は時によって肯定したり否定したりしていました。

そんな私も最近は段々宗教に対しての考え方が固まってきました。

現代では、特に宗教は必要だと思っています。

心や精神の問題を己だけで解決できるような強い精神や心を持っている人が少ないからです。

精神が病むとうつ病になります。

心療内科という現代でもうつ病になったときに受診するところはありますが、そこでよい先生に出会えることはあまり確率が高くありません。

特に日本はこの分野は遅れているのではないでしょうか。この辺は専門家ではないのではっきりしませんが、ろくでもない医師が多いのでそう思ってしまいます。

だから、スピリチュアルを求める人も多くなります。

これも一種の宗教です。

それを商売にする人もたくさんいますが、それはそれでいいのではと私は思っています。

それに、スピリチュアルを商売にするのは本当は大変で、自分の欲が勝ってくると、本人に必ず何かしらのことが起こっているはずです。現世で起こらなくてもきっと来世では起こるでしょう。まあよくわかりませんが^^

この欲が勝っている、いわゆる宗教を食い物にしている人が多いのと、知りもしないことを断定的に言うスピリチュアル教師や霊能者が多いのもこの世界に対してうんざりもしていました。

でも、それによって救われる人がいる限り、否定よりも肯定しなければいけないかなと最近は思っています。

変なスピリチュアル教師や霊能者はいずれ淘汰されると思うし、されずにでかくなってしまったその手の人たちは、いずれ何かしらのことが起こると思えばいいかなと考えています。

騙される人も出てくるけど救われる人も出てくるから、どちらかと言うと救われる人に重点を置いたら肯定するしかありません。

日本は宗教が世界的に見ても盛んではありません。

それゆえ自殺者も多いのかもしれません。

どうしようもなくなったとき、信じるものがあれば、それによって最悪な事態には起こらないかなとも思います。

それに信じているものがあればポジティブに働けるしね。

信じるものがない人ほど何かあったときにネガティブになります。

上手く行っているときは強気に生きているんだけど、つまずくと結構もろい人が多いようです。

それゆえ、多少、スピリチュアルや霊能者や、宗教者にお金を取られたとしても、所詮、お金ですからと割り切れば、その存在は今の日本では必要だと思うのです。

しかし、どうしても宗教関係者に譲れないことがあります。

それは宗教に政治を絡ませることです。

政教分離、日本では法律にそう定められているのに、堂々と政教分離していない宗教団体が多すぎます。

もともと、宗教と政治は密接に絡まっていたし、古代では宗教が政治でもありました。

キリストは宗教家の面と革命家の面を持っていました。だから完全にキリスト教自体、宗教と政治が一体となっているのです。昔は国教になってい足し、今でも国教にしている国もあると思います。

宗教と政治が一体となると、当然違う宗教をしている国に戦いを仕掛けます。これは歴史がいくらでも証明しています。

つまり、宗教と政治が一体となると争いが生まれるのです。

本来の宗教なら争いを好まないはずです。

それが自分の宗教が一番正しいなんて言うから争いが生じます。

自分の宗教が一番正しいと言う証明は国がその宗教を一番だと認めることです。それゆえ、国教となるのです。。

自分の教えが一番正しいと思うのなら押し付けなんかしなければ良いのです。

信じる人だけで信仰すればよいのです。そしてその人たちが幸せそうにしていて、それをうらやましがる人たちがその信仰に入ればよいのです。

正しいのなら廃れそうになったらそこの神様が助けてくれるはずですから、神様に任せればよいのです。

廃れてしまったら、その神様ではもう駄目だと諦めればいいのです。

仏教には王仏冥合と言う教えがありますが、これはその教えを曲解すると、もしくはそのままなのかもしれないが政治と宗教が一体となると言うことです。

ただし、違う捉え方もできますが。正しい宗教が広まれば正しい政治が行われると言うように。

でも、どうしても政治と宗教の一体がこの教えには感じられてしまうので日蓮は法華経を国教にしようとしました。

そしてその教えが根底にあるから日蓮系の宗教は表でも裏でも政治に関わろうとしています。

今の幸福の科学も創価学会のまねをしようとしているし、オーム真理教などは武力による政治介入までしようとしていました。

全ての元凶は宗教が政治に介入しようとしたからです。これさえしなければ、私は多少のことには眼をつぶってもよいのではないかと思います。

それゆえ、宗教と政治は分離しなければならない。

そして、それと同じような理由で、教育も分離しなければいけないと思っています。

教育も政治と一体となると、これは完全に政府の思うままに国民は動かされます。

宗教、政治、教育は洗脳が一番強いし効果があるのです。

その洗脳が強い三つが一体となったらもう無敵です。

日本が軍事国家になったときも宗教、政治、教育が一体となっていました。だから国民は一致団結していました。

今の韓国や中国が日本を敵視していたのも韓国や中国の教育が日本を敵視した教育をしていたからです。

戦争を知らない国民が戦争の恨みを持つなんて完全に洗脳です。

結構戦争を知っているお年寄りのほうが日本を敵視していなかったりしますからね。

だから、教育に関しては世界規模で考えて、同じような教育をしなければなりません。

それは大きな洗脳だと言う意見は当然出ますが、今のところ、教育って洗脳だから、同じ洗脳ならまだよい洗脳のほうがいいかなと言うことです。

もちろん未来にもっと世界のレベルが上がったら、もっとよい方法を考えれば言いと思います。

現状では、ベストではなくベターくらいに考えるしかないかなと。

このような理由で、私は政治、教育、宗教は完全に分離して新たな三権分立をすればよいのではと提案したいのです。

と言っても政治家ではないので、提案しかできないし、実行は来世でもない限り無理でしょう。

でも、宗教を選ぶさいに、政治にさえ絡んでいなければ最低限OKというのはある線引きにはなると思います。

広告消し

2010.10.27 Wednesday | by kawa-su
 広告消しのための更新

世界平和のための宗教のあり方

2010.07.16 Friday | by kawa-su
 世界が平和になる方法として宗教をどうにかすれば良いというのがあると思う。
争いは宗教が絡むことが多くて宗教が無ければ争いが起きなかったというのも過去には沢山あった。
だからと言って宗教を否定することは今の人類にはできないだろう。
それならばどうすれば良いかと言えば、個々の国ではなく、世界で統一の法律を決めて宗教と政治は絡ませない、いわゆる政教分離をすることが重要となります。
個々の国が統一をする必要は無く、ただ宗教の取り決めとして政教分離をするという考え方は一世紀前なら不可能だったろうが今なら可能なのではないかと思う。
ユーロが経済でヨーロッパを統一したように宗教と教育は世界で取り決めを統一した方が平和に近づくはずです。
特に教育は重要で、これは世界で同じ教育をすれば違う国でも理解しあえるようになるはずです。
勿論、個々の国の文化まで統一しろと言うことではなく、個々の国の個性をなくさせるものでもありません。
単純に、お互い理解しあいましょうと言う教育を世界で同じようにやれば良いというだけなのです。
それはある意味世界的な洗脳だと批判も出そうですが、所詮、人は何かしらの洗脳を受けているのです。
洗脳されずに生きている人はごく少数で、そのような人たちはどんな教育を受けようと自分の立ち居地を持っていますから、ある意味洗脳はされにくいのです。
しかし、大多数は洗脳を欲しがっているのです。
学歴社会や良い会社に入ろうと言うのも洗脳です。
その洗脳から逃れない人たちがその洗脳された世界を目指すのです。
何も宗教だけが洗脳しているわけではないのです。
それでも、洗脳が悪いと言うのではありません。
ほとんどの人は洗脳されないと、どのように生きてよいか分からないので、どうせならレベルの高い洗脳をされた方が良いと思うのです。
そのレベルの高い教育を世界で統一して行えば争いは無くなるはずです。
「世界平和を祈ろう」では何万年経っても世界平和はこないでしょう。
しかし、政教分離と世界教育を実践すれば世界平和はだいぶ近づくのです。
勿論、今から実施してもそれが実るには最低でも数十年はかかります。おそらく100年くらいはかかるでしょう。
それでも世界平和を目指すなら少しでも早くそのような取り決めを世界ですべきなのです。
政教分離は各国がそれを認めればよいのだし、世界教育は取り合えず、そのような教科書を作るところから始めれば良いのですからそれほど難しいことではないと思います。
今の日本は一応法律的に政教分離しているというけど、これは誰が見ても政教分離はしていません。
そこで、宗教団体は特定政党をちょっとでも応援したら選挙違反として行けば、これも時間と共に達成できることです。


死後の世界

2010.05.04 Tuesday | by kawa-su
 

これまでの40回は10年前に書いた論文であり、そのほとんどの内容が一般的に言われていることをまとめたものでした。今回以降は私の見解を載せたいと思います。そして仏教の見解と言うより一般的な精神世界、スピリチュアルの世界の見解を述べたいと考えています。

私たちが宗教や精神世界で一番重要だと考えているのは死んだらどこに行くのか?もしくは死んだら無になるのかと言うことだと思います。

この問いに関して検証された正解はまだ聞いたこともない。全てと言って良いほど宗教者や精神世界の人が述べる見解は独自の見解であり、それが証明された答えではありません。ただ信じるか信じないかの世界に留まっています。それゆえ信仰と言う宗教が世界に数限りなくあるのですが。

霊の世界、魂の世界に生きたままで足を踏み入れることができれば死後の世界に対して安心できるのですがほとんどの人はそんな体験はできません。時々、死後の世界に行ってきたと言う話も聞くと思いますが、それは他の人の話で自分の話では無いのでやはり信じるか、信じないかと言う話になります。それに、最近では三途の川を渡りそうになったなどと言う人の話も脳が作り出した世界だと言われています。それゆえ(育った世界の死後の世界)を見てくると言われています。つまり三途の川があると思っている人は三途の川を見、天使が迎えに来ると言う世界観を持っている人は天使が見えると言うようなことです。

死ぬ直前に脳が幻影を見せると言うのであれば、それは死後の世界と認証できるものではないし、実際、身体が朽ちてから復活したと言う人は証明された例では無いので信じるか信じないかの話になってしまいます。

私はあるとき考えを別な方向から考えました。

仮説を立て、その仮説はA死後の世界がある。B死後の世界が無い。と言う二つに分けました。

もしBの「死後の世界が無い」とはっきり分かったらどうなるだろう。

死後の世界が無かったらこの世界しか無いと言うことで、死んだら全てが無になると言うことです。全てが無になるのならこの世界の時間はただ長いか短いかと言うだけの問題で、それも人の命はたかだか80年なので無限の時間から考えると1年も80年も大して変わらない時間になります。

それゆえ時間の長さは関係ないと思い、死んだら全てが無になるのならむなしい気持ちに襲われせめて生きているときは好き勝手に生きようと考えるのではないでしょうか。

人を殺しても、盗みをしてもレイプをしても死んだらみんな同じように無になるのならそれらの罪も関係ないと考えるのではないだろうか。

実際、人以外の動物は他の動物を殺し盗みレイプしても罪の意識を持ちません。それらのことに罪の意識を感じるのは人だけです。

つまりそれらの宗教や道徳的なことは人が勝手に作り出した幻想だとも考えられるのです。

全ての人が死んだら無になると考えたらお互いがうまくやる為に法律や決め事を作ると思いますが裏ではそんな法律や決め事を大事には思わないでしょう。つまり隙さえあれば自分の欲のために人を殺し、盗みを働き、レイプをするのが当たり前だと思うでしょう。実際、文明が発達してない大昔はそんな世界だったかもしれません。

それでは現在の世界はなぜそのように自分の欲だけを考える人が少ないのでしょうか?

私は無神論者や唯物論者でも心のどこかで死後の世界やある意味での神の存在を信じているのではないのかと思うのです。

死後の世界や神の存在を信じている人は自分で自分を律します。悪いことをやったら結局それは自分に跳ね返ってくると信じています。それゆえ悪いことをやるより良いことをやろうと本気で思っているはずです(実行するしないは別として)

それは現在が今までの歴史の中で一番豊かだからそのように考える人も多いのだと思います。

しかし、世の中には死後の世界など無い、神など存在しないと100%本気で考える人もいると思うのです。そのような人は人を殺しても見つからなければ良いと考えているはずだろうし、盗みをしてもつかまらなければ良いと考えているはずです。何しろ死んだらみんな同じく無になりますし、その無になるのもただ時間の長さが違うだけなので生きているうちに楽しんだ方が得だと考えているのだと思います。「いやそんなことはない。私は死んだら無になると考えているが人を殺したり盗みをしてまで自分が楽しもうとは思わない」と言う人もいると思います。しかし、それはその人が死んだら100%無になるとは思っていないからか、死んだら無になると言うことを真剣に考えていないからか、現代世界の道徳観に洗脳されているからだと思います。善良でいたいと考えているところでもうそこには宗教的な道徳が入っているし、洗脳されているのです。

しかし、世の中には100%死んだら無になると考えると言うより実感している人も少なからずいるのでしょう。考えられない犯罪がニュースで流れるたびにその犯罪者は死んだら無になると考えているのだろうなあと思ってしまいます。

死んだら無になると100%考えている人は犯罪と言う観念が無いのです。動物が他の動物を殺したり盗んだりすることに犯罪と言う観念が無いと言うのと同じです。

つまり本当に死んだら全て無になると言うのであれば全てと言っていいほどの宗教がうそであるし犯罪と言う観念も人が勝手に作り出したものであるからそれを重要視する必要はないと言うことになってしまいます。

私はそれゆえ死後の世界があると言う仮説を信じた方が人の世界は保たれると考えるのです。宗教も正しいとか間違っているかと言う問題よりも、人が隣人を信用して安心して暮らすには必要だと思うのです。

宗教は基本的に人を殺すだとか盗みをするとか言うことを禁じています。それらを推奨する宗教はもうこれは宗教とは呼べないでしょう。政治でしょう。

つまりほとんどの宗教は人が善意ある行動をするように奨め、信者も善良な人でありたいと考えていると思います。

それゆえ、この世界を秩序ある世界としたいならば死んだら無になるとは考えない方が上手く行くのです。もし死後の世界があったなら、死んだとき善良に生きて来て良かったと喜ぶだろうし、死んだらどうせ無になるのなら「善良なことをする必要が無かった」と悔やむことも無い。つまり死後の世界があると信じた方が損は無いのである。もし死後の世界が無いと考え、死後の世界があったら「失敗した」と思うでしょう。しかし「死後の世界がある」と考え生きたなら「死後の世界」があったら「良かった」と喜ぶだろうし、無くても「失敗した」とは思えないし分からないのである。それゆえほとんどの人は無意識のうちに死後の世界があると考えているのだと思う。猟奇的な犯罪をする犯罪者を除いて。

又、死後の世界があると人々に信用させそれを利用して宗教にしている宗教者の中には逆に死後の世界は無いと100%考えていて、自分の欲のために宗教を利用している人もいるかもしれない。

この辺はもう少し深く掘り下げて次回以降に書きたいと思っています。

 


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