三蔵

2017.01.07 Saturday | by kawa-su

宗教とは何だろう?

古代の宗教なら単純だ。

神がかりの巫女(神子)が神の言葉を述べることが宗教だった。それに政治が加わり、宗教は政治に利用される。

仏教のもととなった古代インドのリグ・ヴェーダの初めは、インドラ(帝釈天)と言う戦い(政治)の神をたたえる詩がほとんどだった。

政治宗教の次に来る宗教が、信じることが重要な宗教だ。

そして、この信じる(信仰心)の宗教が世界の宗教のほとんどを占めている。

キリスト教やイスラム教、ユダヤ教など欧米の宗教は神を信じると言うことが信者の一番の勤めだ。

だいたい、信者と言う呼び名が信じる者と言うことだから欧米の宗教は信仰心とほぼイコールとなっている。

しかし、信じる対象が間違っていたらその宗教を信じると言うことは最悪になる可能性もある。

通常「信じなさい」と言うのは詐欺師だと決まっている。

それ故、信じなさいと言う宗教も詐欺師と変わらないと考えるのが普通なのだが、ほとんどの人はそうは思わないし、教育が高いと思われる人たちも宗教となると幼児と同じくらいのレベルとなってしまう。

ただ、宗教の場合、騙されてもお金を取られるだけでポジティブになれると言う場合もある。

宗教のほとんどは、表向き、社会に対して善い行いをしなさいと言っているので、社会福祉や恵まれない国や人を助けるなんて言うことを宗教はよくやるし、それを手伝う信者も、社会に貢献しているのだと行動していれば、生き方がポジティブになる。それ故、宗教としては騙されても本人にとっては良いと言う場合もある。

だから一概に信仰宗教は悪だとは決めつけられない。

信仰心ではない宗教と言うと何だろう?

それは戒律と論(他の人の論を信仰すればそれは信じる宗教だが)だ。

仏教ではこの二つに経(教は自分で何が書かれているのか考えれば論となるが、ただ信じるだけなら信仰となる)を加えたのを三蔵と呼ぶ。

有名な三蔵法師がインドより持ち帰ったのがこの三蔵である。

釈迦の教えが経で、それに色々な人が解説をしたのが論、そして弟子(修行者)が守らなければならないのが律だ。

律(戒律)の意味は簡単だ。

人を殺してはいけないとか盗みはいけないみたいなことで、仏教なら肉を食べてはいけないとかセックスをしてはいけないみたいなこともあるだろう。

何しろしてはいけないことが律だ。

この律をちゃんと守るような僧がいないのは誰もが知っているところだ。

経と論は教えのことだが、ほとんどの信者はそれらの中身を知らない。だいたい僧でもお経は読めても中身は知らないと言う者もいるだろう。

ましてや、信者となるとほとんどの者はよくわからないはずだ。

つまり、仏教でいう三蔵は信者にはほとんど関係ないし、僧侶にとっても意味がない感じになっている。

その三蔵よりも信じることが重要だと教えられる。

そしてこれは仏教だけでなく信仰を重要視する宗教はみな同じようなものだ。


里づくり

2017.01.05 Thursday | by kawa-su

里づくりを仏教で考えるとどうなるか?

仏教の十界で言うと、都会暮らしは地獄から天までの六界(六道)を言い、里づくりは

四聖の中の声聞と縁覚を言う。ここで重要なのは里づくりでなく田舎暮らしだと都会暮らしと同じく六界になる。

もちろん例外はある。

都会暮らしでも田舎暮らしでも四聖の暮らしをしている人もいれば、里づくりをしている人でも、意味が分からなければ地獄の中に入ってしまうのだ。

そしてこれが重要なのだが、里づくりでも、本質が分からない指導者が指揮を執っている場合は、指導者が天の境地にとどまってしまうために、そこに集まる人々は地獄、餓鬼、畜生の境地の中に入ってしまう。

指導者がいず、自分だけで里づくりをしても、里づくりの本質を理解しないと地獄、餓鬼、良くて人の境地に留まってしまうだろう。

ただし、智慧の出る人ならば苦労はしても縁覚の境地にたどり着けるかもしれない。

智慧が出ると言うのは、自ら何かをしようとすれば出るものだ。しかし、この世界の教育(洗脳)が強い人は、常に誰かの教えを請おうとして自分の考えを出そうとしない。それ故、智慧も出ない。誰かのマネをしたり、技術を盗もうとするのは構わない。初めてなにかをするときは、どんな天才でもそのようにするからだ。しかし、そこでとどまると智慧は出ない。

例えば、里づくりの一環として農業をする。その時、ほとんどの人は有機肥料、無農薬野菜を作ろうとするだろう。そして、それが特別なものだと自慢したいはずだ。

しかし、今は昔と違い、田舎で自分が食べる野菜を作っている人は、ほとんどが無農薬で作っている。だから、特別ではなくなってきている。

そして、無農薬の野菜だからすべて良いと考えるのは、これも洗脳されているからである。

自分で考えようとしないで、都会から田舎に来て野菜を作る人はみんな無農薬を目指すから、それが正しい行為だと誰かの考えに賛同しているだけなのである。

無農薬野菜を作るのを目指すのは良い。しかし、それがどういう意味を持つのか自分の考えが出ない人は、時間とともに、地獄、餓鬼の世界に陥ってしまうだろう。

つまり、里づくりと言うのは単に田舎に行けばいいと言う話ではないのだ。

 


里づくり

2017.01.04 Wednesday | by kawa-su

里づくりとは何でしょうか?

これは宗教と関係あるのでしょうか?

普通、里づくりと言えば宗教ではなく生き方だ。

単純に言えば都会に住むか田舎に住むかということなので、これだと生き方であるし、経済的なことかもしれない。成功者は都会に住み脱落者は田舎に帰ると言うのはよくある話である。

私が住んでいた沖縄の島ではまさしくその通りで、島から出ていき成功したものは、そのまま帰ってこず都会で暮らし、都会で失敗したものは島に帰ってきた。

だから、島は高齢者と失敗者が大半を占めていた。

もちろん、田舎の自然にあこがれ引っ越して来たものと、生まれ故郷が好きだと言うものもいる。そして、島のリーダーになるものは移住者かUターン者が多い。これはエネルギー(力)が違うからで、新しいところに住もうと言う人は、失敗者とか先住者よりもやる気があると言うことでもある。

田舎の人の構成はほとんどこのパターンだが、酷いのは、高齢者を捨てに来る家族もいた。

もちろんその家族には捨てると言う意識は持っていないだろう。

おじい、おばあが生まれたところで住みたいと言ったから、小さな家(小屋)を造ってあげたと言うだろう、たとえ小さな小屋と言えど、数百万円はかかったと主張すると思う。

それでも、他人には捨てているように見える。

今、田舎に住むと言うことは悲しい現実を見ることであり、都会に住んでいる人からさげすまされることでもあるのだ。

では、視点を変えたらどうだろうか。

里づくりとは、人工的なものに囲まれて生きるのか自然に囲まれて生きるのかと言う定義にしたらすこし違ってくる。

そして、この定義には人工的と自然の説明をしなくてはならない。

一般的な印象では、人工的と言うと悪で、自然は善と言う印象がある。

しかし、そうなのだろうか?


コメント

2017.01.02 Monday | by kawa-su

ここはブログだから、当然コメントも来るのだが、ここ何年かコメントを見ようとしなかった。

だいたい、コメントが来ることもないし、来ても宣伝とかH系だと思われるコメントだから、無視するしかなかった。

でも、私がゴッホの本を出した時にコメントをもらっていた。今気が付きました。

これはお礼を言うのが遅いけどありがとうございます。

ゴッホは日本を愛し浮世絵を集めたから、次兄も浮世絵収集家、研究家としてゴッホに愛着を持ったのだと思う。

私が浮世絵収集をしたのもゴッホを知ったのも次兄の影響である。

しかし、ゴッホに関しては独自に調べていくうちに、ゴッホだけではどうしても無理が来て、印象派も調べなければいけなくなった。

私自身の結論から言うと、近代絵画や現代絵画はよくわからない。しかし、印象派の絵画を勉強すれば、絵画の見方が分かるようになり、近代、現代の絵画も分かるようになる。

だから、美術館に行って絵画を見るのなら、印象派を勉強しなければほとんど意味がないということになる。

浮世絵にしても、ゴッホだけが浮世絵を愛したわけではなく、この時代、東洋ブーム、特にジャポニズムが芸術家に影響を与えた。

特に印象派の画家に影響を与えたし、印象派に対立するアカデミー絵画でもジャポニズムは受け入れていた。

印象派の中でも、印象派の生みの親と言われるマネは浮世絵によって絵が変わったと言っても過言ではないし、自らの絵の中に浮世絵も入れている。

特にゾラを描いた絵は、浮世絵と西洋絵画とマネが描いた『オランピア』の版画を壁に貼っている。

これは東洋の代表芸術浮世絵と今までの西洋絵画の合作によって自分のオランピアができたと言う暗示になっている。つまり東洋と西洋の合体がマネのオランピアだと言うことだ。

マネは、絵画になぞかけをする画家でもあったので、こういう面白い絵をいくつも描いたし、浮世絵が描かれなくても、明らかに影響を受けたと言う絵を何枚も描いている。

ゴッホと印象派を書いた文にはそういうことを書いたのだが、ここでは仏教のことが中心となったので、書いてはいない。

マネ以外でも印象派の代表、モネはゴッホ以上の浮世絵の収集家で、それも北斎、写楽、歌麿など、現代、高値と言われている浮世絵を数多く収集した。

そして、その浮世絵を晩年過ごしたジベルニーの自宅に飾った。

今でもジベルニーのモネの家に行けば、壁に飾ってあるレプリカの浮世絵を見ることができる。

それ以外にも浮世絵と印象派の画家のエピソードは色々ある。ゴッホだけにとらわれず、この時代を勉強すればかなり面白いと思う。

一応、これからはコメント欄もチェックするようにします。

また、遅くなりましたが『転生したらゴッホの弟だった』を書いた欄にそのコメントを表示しました。


次兄の本

2016.12.31 Saturday | by kawa-su

私が法華経を説こうと書き始めたときに、アマゾンで参考資料を探していた時に次兄の本が発売されることを知った。

本を買った読者感想によると、救われる道は里づくりをすることらしい。

不思議な因縁と言うより、やはり次兄は何かを知っているのかなと思う。

私が法華経を説こうとしたときに次兄は一念三千論をもとにした本を書くと言うし、私が山に入り、里づくりの様な事をし始めているときに『里づくり』の重要性を本に書いているらしい。もちろん、本を読んでいないので詳しいことは分からないが。

法華経のことや里づくりは、もちろん次兄の影響を私が受けたわけだから、主題が同じでも当然のことなのだが、同じ時期と言うのが不思議な因縁なのだ。

次兄の本の宣伝文を見ると、昔とあまり変わらない感じがする。

主観的であるが、相変わらず力強い感じがする。これだけ力強いと信じる人もそれなりにいるだろうと推測できる。

アマゾンのランキングを見る限りでは2万部は売れそうである。

この本を出すことによって、また次兄の力が増すかもしれない。

一念三千論とは中国の天台大師が説いたものだが、これは十界に十界をかけ、それに十如是と三世間をかけたら三千になり(10×10×10×3=3000)それがこの世界だと言うことなのだが、この中で、純粋に法華経に書かれているのは十如是だけである。

十界のうちの六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天)は仏教成立以前の古代インド思想を起源としたものだし、残りの四聖(声聞、縁覚、菩薩、仏)は天台宗の教義に出てくるものである。

三世間は竜樹の大智度論に出てくる世界である。

日蓮や天台が法華経をもとにした理論(論蔵)、を世に出すが、全て法華経をもとにしたと言うのではなく、いろいろな仏教から抜き出している。

法華経を唯一と言うのなら、法華経のみで論を書けばいいと思うのだが、法華経だけでは説明できないと思ったのだろう。

実は次兄もそのような書き方をしている。

悪く考えれば法華経と言うメジャーな経典を利用しているとなるし、良く言えば、今の衆生に対応するために書くため、衆生の知識(興味)に合わせて書くからと言うことになる。

そして、それは間違ってはいないのだろう。いくら真言だからと言っても誰も興味のないことを書いても誰も読まないのだから。誰も読まないものは力を得ることができず、そのまま埋もれてしまう可能性があるのだ。しかし、その時代に誰も理解する人がいなくても、後代ならば理解する人も出る可能性もあるのだ。ゴッホのように。しかし、法華経だけは後代でも理解する人が出てくる可能性は低い。何しろ、法華経は仏と仏しか理解できないのだから、後代に仏が現れなければ誰も理解できないで終わり、埋もれてしまう可能性が高いのである。

そして、天台も日蓮も法華経が言う仏ではないから逆に自説を法華経解説として後世に残すことができたのだ。


法華経を説く

2016.12.07 Wednesday | by kawa-su

今、法華経を説くことをしています。

いずれ、ここで概要、もしくは初めを載せたいと考えています。

半年以内にはできるかなと考えていますが、今のところはっきりはしません

天台大師の一念三千、日蓮の三大秘法などから始まる予定です。もちろん、日本の最大教団創価学会にも触れないといけないでしょう。

創価学会も戸田がひきいていた時は日蓮の流れに乗る可能性があったが、現在は三大秘法を守る気がなくなり、政治集団になってしまったので、日蓮の法華経からは外れていくでしょう。

では、代わりの教団が現れるのか?

そもそも日蓮の法華経とは何なのか?

一般の人は勘違いをしていますが、法華経とは様々な法華経があります。

 

 


自由自在

2015.01.03 Saturday | by kawa-su
トルコにパックツアーで行った。普段フリー旅行しか行かないのだが、パックツアーの添乗員をしている姪が、トルコはパックツアーの方が良いというのと、ツアー料金があまりに安いため決めた。パックツアーは過去に一度だけある。それは、30年以上前に兄と一緒に中国に出かけたツアーだ。その時代は、自由に中国に行けず、パック旅行以外認められていない為だったから、自分の意志でパックツアーを決めたのは生まれて初めてといえる。
パックツアーは自由がないと敬遠していた。また、フリーでヨーロッパを歩いていると、時々、パックツアーの人々に出会う。そのパックツアーの人々を見ていると、情けないとか、それじゃあつまらないだろうという感情がいつも出ていた。
しかし、何事も決めつけはいけないという信条なので、経験してみなければ批判も出来ないだろうとも考えていた。
今回トルコツアーに行ってみて、何て楽な旅行だったろうというのが、一番の感想である。
成田空港で会ったツアーメンバーを見た時、皆大きな旅行バックを持っているのにまず驚いた。
私たち夫婦は2週間くらいのヨーロッパ旅行でも、飛行機内に持ち込めるバックしか持たない。
それでなければ移動の時やホテルまで行くのにすごく苦労するからだ。
今回ツアー仲間が大きなバックを持ってきた理由はホテルに着いたとき、添乗員の説明で理解した。
ツアー客の手荷物以外の大きなバックは、ほとんどドア・ツゥー・ドアなのだ。
ホテルに着いたら大きなバックはホテルのロビーに運んでくれる。そこから部屋まではツアー客が運ぶのだが、ツアー客が運ぶのはそれだけで、翌日はドアの前に荷物を出しておけばポーターがバスまで運んでくれる。
観光地をバスで点と点で運んでくれる。食事は日本人が食べられる物を出してくれる。
歩く時間は最高で1日1時間くらい。
バスの休憩は2時間おきにあるのでトイレの心配もない。
これはこれで、とても楽な旅で、それなりに楽しいかもしれないと思った。それと同時に、フリーツアー{旅行)とは別物の旅行だとも感じた。そしてほとんどの日本人はフリーツアーよりもパックツアーの方を好むとも分かった。
違う言い方をすると、フリーツアーをする人は変わった人ともいえる。
これは旅行だけの話ではなく、すべての事が、フリーよりもパックの方を日本人は好むともいえる。ここで日本人と限定するのは、他の国の人の嗜好までは分からないからだ。もしかしたら世界中の人がそうかもしれない。
大学や就職も、パックを好むし、何かをするのでもパックを好む。
例えば、芸術が好きだから芸大とか多摩美に行きたいと考える人は多いと思う。そして見事合格したら、芸術に関しての事を、興味のないことまで学校が教えてくれる。つまり勉強の内容までパックになっている。
陶芸をやってみたいと思ったら、陶芸教室か陶芸の先生に直接習おうと考える。
家を造ろうと思ったら、銀行と工務店に相談する。全てパックになっているから自分で選ぶのは数種類から選べばいいだけだ。
それは、パックツアーの食事に似ている。魚が良いか肉が良いかみたいな。
自分で自由に始めようなんて人はまずいない。
自分で始めると分からないことがたくさん出てくる。
それらの答えを知るには、昔は大変だったが、今はネットがあるので、ほとんどの事は分かる。
陶芸にしてみても、どこから土や道具を買えばいいのか、どのように作るのかなどは、たいていネットに出ている。
そして、どうしても分からないときは本を読んだり、専門家に訊いてもいいのだが、ほとんどの人は初めから専門家に習うことが一番良いと思っている。
もちろん技術の上達にはそれが一番だろうが、それだと陶芸の面白さが半減してしまう。
そして、習って作る作品はほとんどが似たような作品となる。
以前、湖で20人くらいの人が絵を描いていたが、すべて同じ人が描いた絵に見えた。
きっと同じ人に習ったのだと思う。
そうは言っても芸術事は基礎が大事で、基礎を習った後に自分らしい絵を描けばいいと考える人は多いと思う。
しかし、基礎が最初なのだろうか?
自由に絵を描いて。基礎が重要だと感じた人が基礎を勉強するのは良いと思う。その人の意志がそこにはあるからだ。
しかし、ほとんどの人は、みんなと同じことを習えば安心するということが一番に出てくる。
みんなに笑われる作品を描かなくてよいから。
これは、印象派の時代でもいえる。
印象派のメンバーは、アカデミーという、パック教えに反抗していた。
初めは嘲笑されたが、段々認められていった。
ゴッホはサロンに出品する事もしなかった。
自己流ゆえ、サロンでは評価されないと諦めていたからかもしれないが。
そしてゴッホは誰からも自分の絵を理解されず、嘲笑されバカにされて絵を描いていた。
ゴッホの絵が技術的に一人前になったと言われているのは、サン・レミ時代からなのだ。
しかし、技術的にひどいと思われているそれ以前の作品も、現在では大きな評価を得ている。
アカデミーではなく、基礎でもなく、技術でもない作品が評価されたのだ。
フリーな人は同世代の人には理解されずらい。
逆に理解されている人は、ほとんどがパックに入っている人(芸術家)だともいえる。
仏教では、仏や如来は自由・自在の神通力を持っていると言われている。
これはパックで生きている人には絶対分からない心境でもある。
しかし、何事も自分でやろうと考える人は、この境地にかなり近づいていると思う。
何かをやろうと思ったら、まず自分でやろうと考える。
どこかに行こうと考えたら、自分の力で行こうと考える。
仏教を信仰している人は最低限でもこれらを考えてほしい。
ちなみに教団や組織の言う事を聞くということもパックである。
つまり、どこかの宗教団体に入って、教祖などの教えを信じるのは完全にパック信仰である。
 

創った世界を味わう人がいて成立する

2014.10.14 Tuesday | by kawa-su
私が若い頃、兄が「自然美あふれる奇跡のような地球が存在するが、その美しい姿も人間がいなければ何の存在価値もない」と言った。
地球の美しさも人間以外は味わうことができないからだ。兄は「だから人間と宇宙の中の奇跡とされている地球の存在は人間と同等なんだ」とも言った。
私が論を書くにあたって、これはいつも考えさせることであった。
私が書く論を理解してくれる人がいるのだろうか?
誰も理解してくれなければ、その論が真理だとしても、前記の価値観に当てはめれば何の価値もないからだ。
どんなにくだらない小説やテレビドラマでも、ベストセラーになったり視聴率が高ければ、それは価値のあるものとされる。それ故、その逆もこの世間では当然ありなのである。
法華経では法華経の内容に関して、仏と仏にしか分からないと説かれている。
仏にしか分からなければ弟子には意味のない教えでもある。
それなのに、釈迦は法華経とは何なのかと弟子たちに説く。
矛盾なのだが私にはその意味が分かる。
この世界がどのような仕組みになっているのか(たとえば神が創ったのか、自然作用で造られたのか)を考えた時、最終的な答えは法華経で言うのなら仏と仏にしか分からないのである。しかし、それ以前の答えなら仏以外でも理解できる。
つまり、法華経で言う仏と仏にしか分からないと言う意味は、法華経の真髄を説くことはできないが、それ以前のことは教えることができるということでもある。
実際、仏教学者は法華経の中に法華経の教えは入っていないと言っている。
釈迦が法華経によって仏になったとか、法華経以前の教えは方便だとか、法華経を流布する功徳とか法華経を流布する菩薩、護る菩薩などは説かれているが、肝心の法華経の中身は説かれていないのだ。
仏と仏にしか分からないのであるから、当然、法華経の中身を説いても意味がなく、それ故、中身は説かずそれ以前の事だけを説いているのである。
これは、ある意味、私がこれから書くことも同じことが言える。
真髄を書くことは意味がないのだが、それ以前の事なら書くことができるということである。
また、私の書き方なのだが、決めつけて書くことになると思う。
これが法華経研究による論文なら、ほとんどの場合、決めつけではなく、だと思うとか、だと考えられると言うような書き方になる。
ただ、法華経や宗教などを論じる場合、研究ではどうしても行き詰ってしまい、宗教的な考え方や書き方にならざるを得なくなるのだ。
冒頭で兄の話を書いたが、兄の話でもう一つ書くと「この世界の人間はほとんど生きていない」と言う言葉がある。比喩で言ったのではない。ほとんどの人間は死人であると言うのだ。
これが何を意味するのか長い間疑問であったが、今は理解している。私も表現は違うが似たように感じているからだ。
また、その意味を説くことも意味がないが、もしかしたら最後の方で書くかもしれない、が、途中で終わるかもしれない。
我思う、ゆえに我あり』はデカルトの有名な言葉であるが、これが分かる人がいたら最後まで書くと思う。
ここからの文章は思いつくままに書くので仏教研究や法華経研究で公にされている中身と違って書いてしまうかもしれない。後で文献と照らし合わせて直す場合もあるかもしれないが、書きたい内容からするとそれらはさほど重要ではないために、違っていても気にしないように。ただ、ウィッキペディアでも出ているような文献に関してはウィッキペディアよりとして載せることとする。ウィッキペディアに出ているということは特別な内容ではなく一般的なことだし常識ということであえて載せます。

 

法華経

2014.10.09 Thursday | by kawa-su
これからの論は発表するかとても迷っている内容なのですが、とりあえず少しだけ発表してそれを削除するか引き継ぐか後に考えます。

仏教には顕教、密教とあるが、私のこれまでの論も誰もが分かるように書いてあるから顕教と言える。密教は分かる人にしか分からない教えであるが、私の密教は分かる人が一人でもいるのだろうかと言う論である。
法華経方便品で釈迦が「唯仏与仏」と言い、この教えは仏と仏にしか分からないと言う。
私の密教もそれと同じである。
ただ、仏教では仏の存在を最高の境地、偉大な存在と位置づけるが、私自身は、仏は偉大とか特別だとは考えていない。
仏を漢字で書くと佛とも書く。
この漢字を分解すると『人で弗ず』となる。人ではないと言う意味である。
佛だから当然、人ではないだろうと解釈もできるが、その解釈よりも人とは何かを理解する方がより佛の解釈につながる。
人や佛を論じるときに十界が便利だ。
十界とは地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界の10の世界のことで中国で生まれた論理である。
中国で生まれた論理と言うか仏教なので、釈迦の教えとは一線を引くしかない考え方であるが、この十界を含む一念三千論が現在日本の法華経の根本であるので無視はできない。
この十界は後にちゃんとした説明をする予定である、が、やめる可能性もある。
ただ、ここでは簡単に人の説明をすることとする。
十界の地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界は六道と言い、悪しき輪廻の世界だと言う。しかし、どういうわけか、六道の人界だけは悪い意味とは捉えない解釈が多い。
人間らしさの追求とか人間とは何かなどの説明をし、真の人間の本性は良いものとする解釈が多い。
六道と言う悪しき輪廻の世界にもかかわらず、人界だけは良いものとするのは論理的におかしいだろう。
実は人界も悪しき六道の世界故、決して良い世界ではないのだ。
人界とはどういう世界なのか? 実はいろいろな世界があるのが人界なのだが、代表的な人界は洗脳された者たちの世界だろう。
洗脳と言うと北朝鮮やカルト宗教を含む宗教全般を思い浮かべるが、これらは分かりやすい洗脳と言うだけで、この世界の常識とか、倫理観なども洗脳の一種である。
テレビで言っている論理をそのまま言う人なんかも洗脳された者と言える。ネット情報をそのまま自分の意見として言う人も同じ。
それでは、誰にも影響されていない自分の考え方や意見を持っている者が、洗脳されていない者に思えるが、それでもそういう者も違う洗脳を受けている可能性もある。
全く洗脳されていない自由な考え方を持つ者はなかなかいないのである。
そしてもう一つ、代表的な人界は、縛られた人生の世界だ。
人は会社や仕事に、ほとんどの人が縛られている。
第一章(顕教)でも書いたが、古代インドのカースト制度のシュードラ(奴隷)状態の人が多い。
古代インドのシュードラとは対価をもらって働く人である。今でいうサラリーマンだ。
古代インドのバイシャ(平民)は、自分では働かないで、人を使ったり、土地を貸したりする人である。
現代の株主とか会社社長、地主がこれにあたる。
人に使われている者は金に縛られているが、かといって人を使う者も金や仕事に縛られている者が多い。
それ故、古代インドでは、それらを逃れるために出家と言う存在があった。
出家すればそれらの縛りから逃れられると王子であった釈迦も出家をしたが、それだけで仏陀になれるわけではない。
誰にも洗脳されていない無我の境地を得られなければ仏陀にはなれないのだ。
佛のもう一つの漢字、仏を分解すると、人とムである。
これはカルト的な言い方をすればムーの人とも読めるし、無(ム)を悟った人とも読める。
つまり無我とは、なにものの洗脳を受けない者ともいえる。洗脳が少しでも入った瞬間、有我となるのだ。
ただ、この世界では無我の状態では生きていけない者がほとんどである。何かしらの洗脳が入るからこそ安定した社会生活を送れるのであるし、安心もできるのである。つまり、洗脳は自分を落ち着ける手段でもあるのだ。
精神的に弱い人が宗教団体に入ると“生き生き”できるのも洗脳のおかげなのである。依存とか信心は、精神を安定させる力があるし強くもできるのである。
しかし、仏とはそれらから離れた存在になれる者で、自由自在を得られる者でもあるのだ。
自在はお金さえあれば得られる感じもしますが、その世界は転輪聖王の世界であって仏の世界ではない。
ソフトバンクの孫正義などは、仏の世界ではないが転輪聖王の世界かもしれないと言う感じである。
仏の本行は菩薩道だと法華経では言う。道と言っているところが中国での翻訳っぽいが、一応そういうことにしておく。
菩薩道とは正しい教えを布教する道とか、慈悲の心を持って人を助ける行為などを言うが、それは顕教の教えであって、密では違う。これは後に説明するかもしれない。
菩薩道とは別に菩薩の存在として観音菩薩の在り方を述べる。
菩薩である観音菩薩は娑婆世界で遊ぶと言う。
もし、観音菩薩が本当に娑婆世界で遊ぶとしたら、娑婆世界の法則に従って生きると思う。それが本当の遊ぶことだと思うから。
もし娑婆世界で特別な力を持って生きていたら、それは遊ぶ世界からはほど遠いものとなってしまうから。
それ故、この世界(娑婆世界)に、もし、仏とか宇宙人が降りてきて、この世界で遊ぶとしたら特別な力は持たずこの世界のきまりの中で生きていくはずだ。
つまり特別な力とは、超能力とか、この世界のすべてを見渡す、などの力のことだ。
娑婆世界の人間を救いに来たとか、地球を救いに来たなどと言う存在の人がいたとしても、この世界のきまりに従うはずである。そうでなければ、救うと言う行為が、強者が弱者にめぐんであげるということと変わらないからだ。
だから、この世界で特別な存在の人がいたとしても、この世界のきまりは平等に降りかかるため、病気もするし、老いもするし、死も逃れないのである。
違う言い方をすれば、仏も菩薩も苦老病死を脱却するには、苦老病死を味わうと言う境地に達するしかないのである。それがこの世界のきまりだから。
 

『転生したらゴッホの弟だった』を出版します

2014.03.12 Wednesday | by kawa-su
久しぶりに本を出版します。
アマゾンで予約しています。
http://www.amazon.co.jp/%E8%BB%A2%E7%94%9F%E3%81%97%E3%81%9F%E3%82%89%E3%82%B4%E3%83%83%E3%83%9B%E3%81%AE%E5%BC%9F%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F-%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E5%AE%8F/dp/4906878296/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1394286332&sr=8-1&keywords=%E8%BB%A2%E7%94%9F%E3%81%97%E3%81%9F%E3%82%89%E3%82%B4%E3%83%83%E3%83%9B%E3%81%AE%E5%BC%9F%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F
題名は『転生したらゴッホの弟だった」
題名からわかるとおりライトノベルです。
軽い感じで読めて、かなりゴッホや印象派のことがわかる小説です。
売れ筋の題材ではないので、売れ数にはあまり期待できないのですが、読んで損はないと思います。
実は、この後も本を出版します。
『印象派の旅』という題のフランスの印象派の画家が描いた地を紹介するガイド本です。
今、それを制作中です。